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2006-12-11  カテゴリ: 思うままに

中国の都市作り、日本の都市作り

中国の都市作り、日本の都市作り

2006年 12月 11日

私のふるさと、奈良。奈良といっても奈良市の南隣の大和郡山市。平城京の八、九条あたりに奈良市と郡山市の境界があります。そのため、古代中国との結びつきの遺産とも言えるものが身近に数多く存在します。1000年級の法隆寺群、薬師寺、唐招提寺などは家から自転車で行ける距離なので学校が終わってからもよく遊びに行ってました。

子供の頃は意識することなくそういう遺産に接していたわけで、中国に好意的になっても見下すことはあるはずがありません。歴史的に見てもこのあたりには帰化人が数多く存在していたはずで、自分の血にも混じっているでしょうし。
で、これらの建築や工芸、文化など、韓国を経由して中国から入ってきたものですし、中国の方に立派なものがあると思っていました。

1300年を耐えてきた法隆寺




同じく1300年を耐えてきた薬師寺東塔




香港や中国で生活し、中国を旅行する中で少しずつ考えが変化してきました。
1992年に初めて中国を訪れてから今までの中国の変化はめまぐるしく、それに連れて都市も大きく変化してきました。羅湖区は始めに開けた所なので狭苦しいのですが、移転した市庁舎付近の建設は広々とゆったりして、私は好き。


平城京の建設は、当時の長安、今の西安の都を手本に模倣したものです。長安の10km四方に対し平城京は約5km四方、長安のメインストリートの道幅150m、平城京の朱雀大路75mというように当時の長安、長さで1/2、面積で1/4にしていました。

中国は大きく作るためなのか、おおざっぱで大きく独創性を感じます。それに対して日本は小さく、丁寧に細かく気を遣いながら作っている感じ。この時代から方向が違うように思います。

おそらくこれは奈良時代当時も同じではなかったかと思うのです。法隆寺、薬師寺など、この時代の建築物が多数メンテナンスのよい状態で残っていますが、中国のそれは大きいのですが、塔が傾いていたりします。でもこれは設計が悪いと言うのでなく、メンテの問題である場合が多いように思います。

これらはどちらがいいと言うことでなく、双方の分担が違うように思います。新しいものを作ったり使うことに躊躇することなくチャレンジする中国と、それらのできたものを使って細かい部分を改良しながら仕上げていく日本という姿ではないのでしょうか。おそらく昔も今もこういう国民性に変わりはないのではないでしょうか。

奈良時代、中国が先生であったことに違いはないのですが、こういうメンテや、細かく気を遣うというやり方は日本の方が先生ではなかったかとふと思ったりするのです。
1300年を生きてきた、薬師寺三重の塔の北側に使われている木材は木を切る前の北側の部分を北側に向けて作られているのです。法隆寺宮大工の棟梁曰く「使い方さえちゃんとしていれば、木は切ってから樹齢までは強さは変わらず、樹齢を超えると少しずつ弱くなっていく」と。

中国・蘇州・虎丘(2000年8月8日撮影)


蘇州・北寺塔の軒の組み物


拙政園


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