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初めての海外旅行 - 香港ひや汗紀行

私が初めて海外に出たのは1991年11月、出張で一人韓国へ。旅行は翌1992年1月に香港と深圳へ。国内外旅行ともにツアー旅行を利用したことがありませんのでハプニングも無駄も多いです。
この「初めての海外旅行 - 香港ひや汗紀行-」はまだ香港が返還されていない1992年、初めての海外旅行でのことです。

香港・中国若葉マークの頃 【1】 初めての海外旅行 - 香港ひや汗紀行

1992.1.11(土) - 1.14(火)香港・深圳
By Sceneway
その瞬間、あせりが体中を駆け巡った。初めての海外旅行。この香港の八百伴に近いマンション、鍵が開かない。いくらガチャガチャやってもダメ。おかしい、どうして..... 。一人立ちつくしてしまった。


昨年11月に韓国へ一人、四日間の出張に出た。初めての海外。空港に降り立った時のほのかなキムチの香り、ハングル文字の看板、オレンジ色の照明に照らされた街の色、四ッ目の信号灯、見るもの全てが日本とは違う好奇心でいっぱいだった。
それから2ヶ月後、香港に住む日本人の友を訪ねてこの香港にやって来た。香港往復のディスカウント・チケット9万4000円、香港・啓徳空港に着いたのが2日前のこと。

空港には友人が迎えに来てくれていて、そのまま彼のマンションへタクシーで向かった。マンションは黄埔花園、約60㎡の広さで引っ越して間もないという。家賃は20万円と目が飛び出そうな高さ。彼の入れてくれたコーヒーを飲み、思い出話などをしながらしばし休息、来ていた郵便物でここの住所を手帳に控える。

旅行会社から帰りの飛行機のリコンファームを72時間前までにするように言われているが、電話ができないので外へ出て帰りの飛行機のリコンファームの電話をする。

「えー、リコンファーム プリーズ」
自慢じゃないが中学校以来、関西弁を除いて語学には全く自信がない。幸せなことに何とか理解してくれたようだ。
「マイ・ネーム・イズ・...............」

香港に来る前、英語の達者な人に電話の方法を相談したことがある。彼の曰くは、「相手が聞いてくることを先にこちらから言え」ということであった。よし、実践してみよう。名前、便名、期日などを伝えると、向こうから確認のおうむ返しがある。これだけで終わってくれというこちらの願いとは裏腹にさらにいろいろ聞いてくる。煙草は吸うかとか、とにかくいろいろ。何かゴチャゴチャ言っている。弱った。でも何とかしないと。向こうも弱っているだろうな。結局、名前をフルネームでアルファベットで言え、と言うことであった。なあんだ。ともかくも、初めての「英語?」での電話が通じたことが恥ずかしながら嬉しかった。
夕方、友人と共に香港から広州へつながる鉄道、KCRに乗って中国深圳へ向かった。深圳・羅湖駅から西へバスで40分くらいの「蛇口」という所に彼の奥さんがいる。彼女は中国人で、まだ日本のビザがないため、蛇口にマンションを借りて住んでいる。彼は週末を彼女と過ごし、月曜日の朝、中国から香港へ通勤するという生活を続けている。

結婚すればビザはすぐ与えられるという国も多いが、中国人と結婚をしてビザを申請しても早くて半年はかかるとのこと。中国人が結婚のためのパスポートを申請して発行されるまで約1ヶ月かかるというので、結婚してから日本で一緒に生活できるまでには1年近く待たなくてはならない。しかも結婚を届けたあとの戸籍には妻の欄が空白、ただ注釈欄に「中国方式により結婚の届出を受理」とだけ記載されていることが空しい。日本政府から祝福されない結婚なのだろうか・・・

2001年国慶節
中国側イミグレの大混雑

KCRで香港九龍駅(現在のホンアム駅)から中国国境の羅湖駅まで行く。羅湖駅では電車を降りると、乗客は出口に向かって一斉に走り出す。ここから中国へ行く香港人が非常に多く、入国審査で時間がかかるため。特に今日のような土曜日は多く、悪くすれば改札を抜けるまで30分から1時間待つと言う。

中国税関近くのオフィスで香港ドル85元、5日間有効の深圳経済特区内ビザを買って通関する。ビザの取得はいたって簡単、申請書に必要事項を書き込み提出すれば5分位でビザを取得できた。

2階の外人用の税関(香港人は1階の税関)はほとんど人がいない。イミグレを出ると、奥さんが迎えに来てくれていた。
「ニーハオ」
初対面、知っている数少ない中国語で挨拶をする。

友人は普通話(標準語)なら中国語はぺらぺらのようだがこの広東省や香港で話されている広東語は分からないと言う。奥さんは広東人で広東語が母語。でも高校卒業以上の人なら普通話は問題ないとのこと。彼女は問題ない。彼は奥さんと何か言いながら笑いあっている。なかなかいい雰囲気。これから彼女のマンションに行き、泊めてもらうことになる。
彼はバスで行くかタクシーにするかと聞いてきた。バスといってもまともなものを想像しては駄目だという。それは楽しみだ。好奇心が頭をもたげる。バスで行こうと返事をする。バスで彼女のマンションへ向かう。

バスはマイクロバスの中古の中古のようなもので、座席は体が動くと一緒にずれる。室内の照明は豆球のようなものが天井からコードでぶら下がっている。独特のサスペンションでごとごと動きだした。
深圳と蛇口の中間くらいのところでバスを降り、韓国風レストランで夕食。中国人にとっては贅沢な所だそうだが、中国人も結構多い。中国のこのあたりの普通のワーカーの給料は日本円で5000円くらいだと聞いていた。メニューを見ると給料に比べて確かに安くない。

再びバスに乗って蛇口の彼女のマンションへ。彼女の部屋は8階、エレベーターがないので階段を上がる。部屋は広い。25型のテレビ、クーラー、そして夫婦連絡用(?)の電話と揃えてあるが、日本人の妻ならということもあって、買い揃えるにはいろいろ悩んだそうだ。

この日は友人の通訳や筆談を交えて、夜遅くまで3人で話をする。僕が知っている中国語はイー、アー、サン、スー........と数字を数えると彼女はびっくりした顔をする。更に、ウォー・アイ・ニーと言うと、顔を手で覆い恥ずかしがるそぶりをした。なかなか可愛いと思った。明日は中国民族文化村を案内してくれると言う。
翌朝、近くの食堂で飲茶を食べ、バスに乗り民族村へ。入場券には香港ドルで160元と書いてある。中国人の場合は数十元位だという。
民族村は中国各地の名所を、野外にミニチュア模型を作って展示してある。入場料が高いだけのことはあってとにかく広い。真剣に見て行けば一日では難しいかも知れない。桂林、万里の長城まであった。売店でポップコーンを買って嬉しそうに食べる彼女の顔が印象的だった。

時々、彼女の口から「ブス」と言う言葉が聞こえてきてどきっとする。日本語のあのブスと全く同じ発音なのである。聞いてみると、「不是」という isnot の意味であるとのこと。純粋の普通話では「プー・シー」と言うのだそうだ。それにしてもブスとはびっくりする。彼女にそのことを言うと、「わたしは ブスです」と日本語でおどけて言う。





民族文化村
★锦绣中华










使い捨てカメラで適当に写真を撮りながら見て歩く。中国人は写真を撮るとき必ずと言っていいほどポーズにこだわる。ちょうど、タレントがプロマイドを作るようにポーズをとる。民族村でも例外ではない。一人の女性が座りながら手を頬にあてたり、向きを変えたりしてスカートの裾が皺になってきている。僕は手すりに頬杖をして何気なく見ていた。その時、彼女はスカートの裾をつかんだと思うと、下着も見えよとばかり思いきり上に持ち上げ裾を直した。
「は・・・・」
一瞬目が点になってしまった。残念ながら下着は見えなかったが、口が半開きで言葉も出ない。友人の細君もその様子を見ていたようで僕の方に見るな、と手で合図しているが、見えてしまってからではね。
友人はよく上海に出張するらしいが、女性が自転車に乗るとき、暑いため、両手でスカートの裾をつまんだままハンドルを持つ所をよく見るそうである。下着が見えそうで見えないのだそうな。それを奥さんに言うと、上海には行くなと言うそうだ。中国人はやきもちやきが多いと言う。
昔の旅行記を見ていると少しずつ思い出してきます。ミニバスのひどかったこと、道が雑然としてでこぼこだったこと、周りの風景に木々が少なく赤茶けていたこと。煉瓦を投げ合ってけんかをしているのがバスから見えました。
ほんとに今の深圳は天国ですね。それでも私は当時の深圳の姿をけっこう興味深く見ていました。初の海外旅行だったからでしょうか・・・
それにしても奥さん、今とは違って、この頃は私にたいそう気を遣っていますねえ・・・

夕方、再び彼女のマンションへ。夕食は彼女の手料理を食べさせてくれるらしい。一緒に市場へ買い物に行くと、肉や野菜がたくさん並んでいて一斤(約500グラム)あたりの値段が書かれている。びっくりするほど安い。品質の悪い物もあるとかで、中身を確認しながら買う。

彼女が料理をしている間、友人と二人で本屋へ行く。色は白いのだが薄い藁半紙のような紙の本が多い。「中国交通旅游圖冊」と書かれた中国の地図帳を買う。紙の質は良い方だが他の本に比べ値段が高い。それでも日本円で100円もしないという安さ。買うときがまた面白い。売り場で伝票をもらいレジでお金を払い、その領収を持って本と引き替え、ということをする。不正の要素を無くすためだろうか。

彼女の手料理をご馳走になる。本だけで勉強したという日本料理だが、とてもよく雰囲気がでていて感心する。味噌汁も作ってくれていたが、なぜかキャベツが入っている。しかし、それも気にならないくらいおいしい。中国人は料理の才に長けているのだろうかと考える。
食事のあと、シャワーを勧められる。まず客が済まないと家人が入れないというので、お先に失礼する。
友人がシャワーを浴びている間に、奥さんが日本語の教則本や日本料理の本を嬉しそうに見せて、身ぶり手振りでいろいろ説明してくれる。今、深圳大学で夜間の日本語講習を受けているらしい。

さあ、明日は月曜日、香港に戻る。友人は仕事だし、香港を1人で歩くことにしよう。タクシーは行き先を紙に書いてみせればいいし、地下鉄も地図があるからどうにかなるだろう。スターフェリーもいいかも知れない。
早朝、奥さんが羅湖駅まで見送りに来てくれた。別れ際、日本語で「てがみ」と言い、手振りで手紙を書くまねをする。「OK」と頷き、友人と2人で列車に乗り込んだ。彼は職場に向かうため、途中の九龍塘駅で降り地下鉄に乗り換えた。僕は彼のマンションの鍵を預かって1人終点の九龍駅(ホンアム駅)に行く。この駅から彼のマンションまでは歩いて15分ぐらいだろう。歩いていくことにした。目印の八百伴が見えてきた。

 保安のためマンションの入り口で暗誦番号を入力するようになっているが、うまい具合に入り口の扉は開いている。エレベーターに乗って5階のDへ。鍵を鍵穴に挿入する。ガチャリと開くはず......?。えっ、そんな......。どうしよう。何回やっても同じ、開かない。あせった。こんな筈はない。1階へ降り、5階Dの郵便受けの鍵穴にも鍵を入れて試してみる。少し堅めだが開くことは開く。中は空だった。もう1度5階へ。やっぱり駄目だ。こんな所で迷子になる訳にはいかない。

 1階にいた管理人さんに身ぶり手振りで鍵が開かないことを告げた。彼は何のかんのと言っている。広東語らしい。手帳を出して書いてくれと身ぶりで示す。書かれた文字は「貴國」。そうか。習いたての中国語で「リーベン」(日本)と答える。リーではなく難しい発音らしいのだが、リーでいいと友人が言っていた。彼は「オー、オー」と言い、2度3度頷く。意志が通じたのが嬉しかったのかにこにこしている。しかし彼はここに住んでいる日本人は5Dの部屋ではないと言う。ああ・・・。すったもんだの挙げ句、彼はトランシーバーでどこかへ連絡をしている。

 しばらくすると、恰幅のよい制服の紳士がやって来た。服装からして警官のようだ。彼は英語で話しかけてきた。この僕に英語?。けれどもそうも言っていられない。きき耳を立て、一語一語よく聞いてみる。どうもお前の住所はどこだ、と言っているらしい。先日、書き留めた住所を見せると、彼はその住所を何度か呟き、僕に外へ出ろと手招きする。ついていくと、彼は2階付近を指さした。そこには7棟を示す「7」の表示がある。そうなのだ。僕は棟を間違えていたのである。瞬間のうちに安堵感が体全体に広がり、力が抜けていくのを感じた。よくぞ住所を書き留めておいたものだ。
まだ「世界之窗」がなかった頃の深圳、車酔いに苦しみながらも明るく案内してくれた奥さん、帰国後、奥さんに電話をしました。彼女は日本語を話そうと教科書を繰り、言葉を探しているような感じ。「沒有、沒有」(無い、無い)と言いながら一生懸命になっているのが、印象的でした。

2人のその後は、返還前の香港で、中国人が香港に滞在するには制限があって許可がなかなかおりないので、友人は東京の関連会社に3年間勤め、奥さんとともに東京で過ごしたあと、弁護士を立て奥さんの香港のビザをとり香港に戻ってきました。2人が香港でともに生活するために彼女の日本のビザ申請期間も含めてなんと4年以上を費やしたことになります。

今、彼女は日本語はぺらぺら、大阪語もこなします。香港在住7年を超えて広東省戸籍から香港戸籍に移動、すなわち香港人となって香港で生活を続けています。
今がこんなことで4年も費やさなくてもよい時代であることを祈って・・・・そして戸籍も・・・
香港ひや汗紀行
終わり
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2007-02-12 コメント(4)
中国東莞市鳳崗鎮出張日記 - 散髪と公安

初めての香港旅行を終えたあと、香港で働くことを勧めてくれる人がありました。
とはいえ、初めての海外旅行を終えたばかり、ちゃんと生活していけるのか不安があります。
で、それまでの会社を辞職、日本で設計して香港の会社に依頼その中国工場で生産をする、という会社に1992年入社、1年1ヶ月程度の香港・中国を経験することになりました。

中国工場は東莞市鳳崗鎮にありました。高速道路が全くなかった頃で香港から深圳に入り、羅湖からタクシーで1時間近くかけて工場に行きます。150元。
当時の鳳崗にはまともなホテルがなく、旅店という簡易宿泊所みたいな所に宿泊。バスはあるものの湯がちょろちょろとしか出てこないので頭を洗うのにも工夫と努力が必要です。
これはこの会社入社3年目、1994年の出来事です。当時の中国日記から・・

香港・中国/若葉マークの頃【2】 中国東莞市鳳崗鎮出張日記 - 散髪と公安

1994年6月16日-7月6日 By Sceneway
おっ、来た来た、手に部品をぶら下げている。きっとあのせりふだ。
「これ、ノーグッド!」
やっぱりな。口から唾を吹き飛ばしそうな勢いである。こういう時はたいていたわいないことが多い。彼が仕事でやってくる時は大体「これ、ノーグッド」と言ってやって来る。それで彼のことをノーグッドにいちゃんと呼んでいる。彼に言うと、ちょっと待て、という顔で嫌がった・・・

どうやら金物部品の寸法が合わないらしい。見ると図面とは逆の方向に曲げられている。納入業者のミスのようだ。彼に良品と並べて見せる。彼は「おっ」という表情を見せ、照れ笑いをして、頭をかきながら出ていった。

ノーグッドにいちゃん、梁さんは僕が初めてこの中国工場に来た時、生産の長として仕事を手伝ってくれた。彼は広東語しか話せないようで、通訳の曹さんの普通話(標準語)を理解はできるが話すことはない。彼の話によると今は学校で普通語の教育があるが彼の時代は普通語の教育がなかったそうだ。
僕も中国語は片言なので、意志の疎通はもっぱら筆談が多い。急に高飛車に出るかと思えば、にたっと笑ったり、仕事の実力はそれほどながら、なかなか憎めない人間で僕とは何かウマが合うというか、よく一緒に遊ぶ。彼のデスクに僕を連れて行き、写真を見せながら、これは子供、これが自分の家だと言いながら説明をしてくれたりもする。

カラオケに行くと人が変わってしまう人間でもある。普段は煙草をすすめると、すました顔をして人差し指で喉を指さして、「ノーグッド」。
ところが、カラオケに行くと酒も飲まないくせに「おい」と言って煙草を催促してくる。煙草を箱ごと渡すと、一本を僕の口に強引に突っ込み一本を自分の口へ。曲の予約メモリーを6曲全部自分の好きな曲に変更しては豪快に笑い、曲にのってくると肩を組んできて大声で歌う。いつの間にか彼の前にはコカコーラが。全く喉に悪いもあったものではない。
また彼がやって来た。こんどは別に何もないようだ。僕の仕事を手伝ってくれながら僕の頭を指さした。どうやら髪の毛が伸びていることを言っているらしい。今回の滞在が延び延びになっているため、帰国してから散髪にいくつもりだったのが、むさ苦しくなっているようだ。中国の散髪もまだ行ったことがないし、一度経験してみるか。

この工場にいる別会社日本人のOさんはもう何回も行っているようだった。
「ただこことここをカットしてくれと身振り手振りで説明するだけ。はっきり言ってうまくはない。洗髪をカットの前にするからびっくりしたけど。通訳の曹さんと一緒に行ったらいいよ」

同僚のHさんは旅館の湯が出ないことが多いので、洗髪だけ行ったことがあると言う。まあともかく今日行ってみるか。梁さんはたった20元だと何回も繰り返し言っている。20元といえば大体250円か、さすがに安い。日本の10分の1以下である。

午後10時、今日も仕事が遅くなってしまった。Hさんに散髪に行くと言い、曹さんと共に工場を出た。

僕が宿泊している旅店の近くに散髪屋が2軒あるが、曹さんがこっちの方がいいと言い、どんどん先を歩いていく。僕としては夜も遅いし、暗いところを歩くのは不安がある。曹さんは僕の気持ちもおかまい無しにどんどん歩いていく。普通なら中国人と一緒なので大丈夫なのだろうが、彼には深夜の路上で強盗にあい、身ぐるみ剥がれた”前科”がある。僕の不安は隠せない。

6、7分歩いた所で彼は大通りから左に折れた。少し暗くなってきた。心細い。戻ろうと曹さんに言うが、彼は大丈夫と言ってきかない。少し行くとやっと1軒があった。みると看板には「髪型設計」と書かれているが、もう営業時間は終わっているようだ。「やっぱり、いいところは髪型設計となるのか、終わる時間も早い」と曹さんが言う。「お前、ここへ来るのは初めてか」と聞き返すと、そんなことはない、と言っているがなにか頼りない。少し行くともう1軒あったが客でいっぱいである。感じはよかったのだが冷房がないから戻ろうと曹さんが言う。贅沢な奴だと思ったが夜も10時過ぎだと言うのに確かに暑い。旅店の近くの散髪屋に引き返すことにした。
「この道が近道だよ」
またまたまた。暗い道を引き返そうと言うのである。

よく聞く失敗談というのは夜の暗い道というのが多い。夜の深圳で脇の小道に入ったとたん顔を殴られ気絶し、気がつくと持っていたものはことごとく無くなっていたという人がいる。この話を聞いて「海外では夜の暗い脇道を歩くな」ということを教訓にしているのである。

「暗いやないか。いやや」
「大丈夫だよ。何も危険はない。僕はしょっちゅう通っている」
「それは昼間やろ。今は深夜や。それにお前には前科がある」
「大丈夫だよ。深夜だって通る。問題ない」
「判った。強盗に襲われたらお前を放って逃げるからな」
「ああいいよ。あなた、本当に恐がってるね」

  そりゃいろいろ話を聞いているから恐い。ポケットを探る。貴重品は・・・。人民元で100元程度か・・・。まあ盗られても大丈夫だ。覚悟を決めて歩き始めた。数分程歩くと明かりが見えてきた。多少ほっとする。3人の人影が目にはいるが問題はなさそうに見えるが、念のため曹さんに日本語を使わないように言いその前を通り過ぎた。道を左に折れると目の前は見慣れている大通りだ。やっと安心できた。なんともないだろ、と曹さんが言った。まあ僕の用心し過ぎかも知れないが、用心に越したことはない。こういう緊張感が無くなったところで事故にあうケースも多い。

旅店の近くには2軒の散髪屋が並んでいる。両方とも5、6人の女性が椅子に腰掛けている。客ではないらしく、綺麗な足のホットパンツ姿である。その筋のことを連想させる。曹さんに聞くと交渉次第だという。大体400元ぐらいだそうだ。曹さんも経験があるらしい。曹さんの奥さんは上海・無錫の自宅で彼が帰郷するのは年に旧正月の15日間だけだからしょうがないか、と無理矢理思おうとするが・・・
奥さんは麻雀ばかりしていると言う。
中に入ると先ほどの散髪屋よりもお粗末な感じだが、冷房があるし小姐もいる。鏡の前の椅子に腰掛けると、その中の一人の女性が寄ってきた。長い髪のホットパンツ姿の美人、入ってきたときに一番最初に目を引いた女性であった。シャンプーを手に取り、頭をマッサージするように洗ってくれる。あまり力も入っていないし期待したほど気持ちよくもない。日本の方がうまい。シャボンのマッサージが終わると、部屋の隅のドア向こうにある流し台に移動する。ここでシャンプーを洗い流すが、意表をついて湯ではなく水であった。しかし暑い土地柄のせいかこの水が気持ちいい。彼女は水のシャワーを掛けながら2言3言ささやく。当然のことながら中国語で僕には判らない。さすがにこの時は中国語が話せないことが残念だった。

頭を洗い終わって席に戻ってくると、他の客が席についていた。彼女はこの客に何か言い席を空けさせてくれた。店内を見ると頭を洗っている内に客でひしめいている。曹さんはというと散髪屋にいた他の女性達とおどけながら楽しく話をしている。本当に彼は女好きである。
椅子に腰をかけるとさっきの女性の担当が終わったらしく、気むずかしい顔をしたおばちゃんに交代した。ドライヤーで髪の毛を乾かせながら何か話しかけてくる。カットをするかどうか聞いているらしい。曹さんが横と後の毛をカットするように言ってくれた。
しばらくすると、工場で一緒に仕事をしている香港人のパトリックを伴って同僚のHさんが洗髪にやって来た。今日はこの散髪屋、千客万来である。しかも時刻は11時になっている。

おばちゃんが櫛を手にカットを始めた。髪の毛をすき、櫛をあて電気バリカンで右から左へさらう。髪の毛がばらばらと床に落ちる。日本での鋏さばきとは違いなかなか豪快である。
洗髪の終わったHさんの方を見ると、待ちきれなくなったのか、自分でドライヤーをあてている。隣でドライヤーを待つパトリックが冗談っぽく「ユー、プロ。OK、OK」と訳の判らない事を言っている。Hさんはそそくさとドライヤーを終え、店の人に3人で値段はいくらかと身振り手振りで聞いている。50元を払い、旅店へと帰って行った。洗髪が15元、カットがなんと5元(60円)である。15元は綺麗な女性の洗髪代というところか。

10分ぐらいでカットは終わり、パトリックと曹さんと3人で散髪屋を出た。出来映えはいいとは言えないが、髪の毛が伸びれば同じ事だし安いのが魅力。Hさんとパトリックが来たおかげで、にぎやかな散髪となり楽しい時間を過ごせた。旅店の部屋に戻ってみると11時半になっていた。


散髪屋へ行って2、3日が経った。時刻はもう深夜1時を過ぎている。日本の7時のNHKテレビニュースが香港のワールドTVで深夜12時頃から毎日放映されているので、僕はベッドでこのニュースを見てから寝る日課になっている。ベッドに横になりうとうとしていると外が騒がしい。大声が聞こえてくる。うるさい客だと思ったがそうではないようだ。

僕の部屋のドアの鍵が合い鍵で勝手に開けられた。チェーンを掛けてあるため、ドアをがたがたしている。公安だ、ふとそう思った。
曹さんはここの通訳。Oさんが大阪人でコテコテの河内弁で彼に話すので、彼は時々きょとんとしていますが大阪語をよく理解していて自分で気づかないうちに染まっています。

今は死語となっているというホットパンツ、超ミニなショートパンツですがこのパンツをはいた女性たちがたむろしている散髪屋はやっぱり異様な感じがします。はじめに1人で行こうとしていたのですが「へん」なところのような気がして行きそびれていたのです。
水で洗い流していたとき、小姐がいろいろささやいていたのはおそらくマッサージのお誘いでしょう。洗髪に比べてマッサージの方が歩合が大きいですから。

散髪屋はだいたい午前3時ぐらいまで開いています。で、働く小姐は拘束時間が16時間とかあってびっくりします。ま、自由にやっているのでしょうけど・・・
今は拘束時間も短くなっているようですがそれでも12時間とかのところも多いようです。

自分はまだ経験した事はないが、公安が無作法極まりない手入れをする、ということは知っていた。目的はいかがわしい女性を部屋に連れ込んでいないかどうかを調べる事だそうだ。中国は夫婦でもホテルの一室に宿泊するのに夫婦の証明書を見せなければならないお国柄である。他人同士の男女が同室するなどもってのほか、という事だろうか。聞くところでは決まって夜1時や2時にやって来ては部屋の隅々、バスルーム、トイレまで確認して部屋を出ていくそうだ。

チェーンをはずすと私服の男2人がずかずかと入り込んで来た。そのうち1人が日本の免許証のようなカードを見せた。手に取って見るとやはり「公安」と書かれている。部屋を隅々チェックしたあと何か言ってくる。広東語らしい。パスポートを見せると僕に向かってチェーンを掛けるように手で合図をし、あわただしく出て行った。


やれやれこれでやっと洗礼が済んだと思ったのに1週間後またもや現れた。今度は公安のあの軍隊のような草色の制服でやって来た。この前の人間とは違う3人連れである。意識が遠くなり眠り込む寸前で、夜ももう2時を過ぎているようであった。

 ドンドンドン!!「〇×□△▽!!!」
むりやり眠りから引き戻された僕の機嫌は最悪となった。チェーンを外すとすぐベッドに入って眠りの続きを実行した。今回は制服のためか身分証を見せる事なく部屋を調べている。確認を終えた後ベッドの足元で3人の公安が立ってなにごとか叫んでいる。
うるさい!中国語である。普通話らしいが判るはずないではないか。
「なに ゆうてんのか わからん」こちらもコテコテの関西弁で応答する。
「〇×□△▽!!」
中国語が判らないという事がわかるはずなのに中国語で怒鳴り続ける。
「なに ゆうてんのか わからへんやないか」
こちらも関西弁で応答を続ける。何しろ寝入りばなを起こされた上、中国語でまくしたてられ、感情は”絶好調”だ。
「*#&@§☆」
「ええ?」
しかしたいしたもので聞いているうちに少しずつ単語が判り始めてきた。どうやらどこから来たかと言っているようである。しかしこちらは何も悪い事をしているわけではない。言葉がわからないということで通す事にした。

「ええ?おお?」
今度は威嚇するように一歩踏み出してきた。
「オオ?エエ?」
「ええ?おお?」
幾度かやりとりが繰り返された。おとなしかった1人の若い男が
「ニップン?」
と言った。ニッポンというつもりらしい。あまり意地を張っていても危険かも知れない。ここらあたりで手を打つ事にした。
「おう、ニッポンや、ニッポン」
と言い返すと、あっさり3人は出て行った。ドアは開けたままだ。本当に腹が立つ。これが中国というものだろうか。人のプライバシーも何もあったものではない。

中国人と接する機会ができてから中国人に対して僕は好印象を持っている。細かい事は別段気にしないし、言い合いをしても後はあっさりしているし、理屈も理解してくれる。人見知りもせず、誰とでも友達になれそうな雰囲気を持っている。細かい事をあれこれ言われるのが苦痛である僕にとってとっつき易いのだ。

こうして考えてみると、無作法極まりないあの公安もそういった特性は持っているように思える。日本人とわかればあっさりと出ていった。にしても高飛車な行動と言動は感情を高ぶらせる。もう少しなごやかにして欲しいものだ。

しかしどうして去年は1度も来なかった公安が今回2度もやって来たのだろうか。ここでふと散髪屋のことが頭をかすめた。あれだけ派手におしかけて行ったのだから公安が情報を仕入れて見回りに来たのかも知れない。何か中国の実体の一つを見たような気がした。
これは1994年の話です。
一般の生活の中で中国を観察していると、公安と一般市民というのは何か「人種」が違うように見えます。
公安は私の言葉を聞いても外国語と思うことなく、中国のどこかの地方の方言だと思っていたのでしょう。何しろお粗末な旅店でしたから外人が泊まっているとは思っていなかったでしょうし。

ある時ある店で日本人2人で話していたら、隣の中国人
「あんたたち、(中国の)どこから来た」
「ん、どうして?」
「あんたたちの話している言葉が全くわからない!」
中国東莞市鳳崗鎮 - 散髪と公安
終わり
香港、東莞で買い物

買い物は定価がついているものばかりではありません。
特に外国で買う場合、製品の価値が日本の感覚と違います。で・・
まず品物の相場値段を知る必要があります。そして値切れるのか値切れないのか、自分はいくらで買いたいのかなど自分でもはっきりしたポリシーを持たないと・・

香港と中国での買い物3態です。

香港・中国/若葉マークの頃【3】 買い物 1 - 香港で


1993年9月 By Sceneway
「セカンド・バッグのような小さな鞄が欲しいねん」
「じゃあ、そこの店はどう? 一度そこで買ったことがあるよ」
尖沙咀の地下鉄駅から出て弥敦道の裏手にある、間口が一間少しといった店で、奥行きが五メートル位だろうか。店に入るとすぐ店員が近づいてくる。


尖沙咀
僕の買い物のやり方というのは、気に入った品物を見つけるまでじっくり店内を見て歩くため結構時間がかかる。あげく気に入った物が見つからず買わないで帰るということも多い。だから入ると同時に店員が寄ってきて話しかけてくる、というのは苦手なので、この店員が黙っていることを期待しながら陳列品を物色し始めた。幸い何も話しかけず放っておいてくれている。

入り口の近くにデザインのいいバッグがある。茶色の鍵のかかる小さなバッグで、色といい、形といい僕の趣味に合うバッグである。一応、頭の中でキープする。他には、と。旅行鞄のようなものが多く、余りなさそうだ。この鞄を買うことにした。連れは女性用だと思ったのか、「マン? ウーマン?」と店員に聞いている。店員は勿論「マン!」。ともあれ僕は結構気に入っている。値段の交渉に入った。

店員にバッグを指さして中を見せてもらった。
「ハウマッチ?」訊ねると彼は鞄の中にある値段カードを見せた。”$498”とある。彼はここから3割引にすると言い、350ドルを電卓で表示して見せる。
「高い。250」と言うと、「ダメ、320」
僕は250で買うことに決めた。従ってそれ以上の価格は受け付けないことにした。首を振る。
「300・・」
「・・・・」
「290・・」
どんどん値段を下げてきた。予備知識によると、値段が高ければ帰るふりをするのも一つの手である筈だ。しかし折り合わなければ欲しい物が手には入らなくなる。まあこれも賭だ。それに香港で値切るのは初めてだし、後学のために試してみよう。他にも店はたくさんある。

「なら要らない」と言い店をでて、てくてく歩き始めた。5メートルほど歩いた所で、ついてきていると思っていた連れがまだ店にいて後から声をかけた。「OKだって!」

おお、そうか。やっぱり試してみるものだ。おかげで表示のほぼ半額になった。でも少し強引なやり方のように感じられ、少し後味が悪い。やはり冗談でも言いながら和気あいあいと値切って、買うたびに親しみが増すような仕方がいいのではないかと思った。
ともあれ、表示金額の半額程度まで値切れるだろうというめどはつき、収穫はあった。

香港・中国/若葉マークの頃【3】 買い物 2 - 香港で ( その2 )


1994年5月 By Sceneway
中国、鳳崗はインフラが良く整備ができていないため、断水も多く水が出てもちょろちょろがほとんど。バスタブに熱い湯を入れてゆっくりつかるということは望むべくもない。ちょろちょろ出てくる湯を大切にシャワーで体を撫でる、というのが精一杯だ。でも僕は初めて中国に来たときから、こんな生活をとりたてて辛くは感じていなかったし、工夫して生活をするということを楽しんでいた。ほとんどは簡単に我慢できる程度だったからだ。

それでも時々香港でとる週末にはほっとする。ホテルでは、蛇口から勢いよく出る水、バネのよくきいたベッド、壊れていないトイレなど、久しぶりに味わう軽やかな感触だ。今日もしばらくSさんと一緒に香港の休日を楽しむ。明日、月曜日は香港のS社を香港人の呉さんと共に訪れて午後には日本へ帰るので、今日は出張最後の休日となる。

ホテルにチェックインしてSさんと買い物に出ることにした。僕がキャスターの付いている小さな旅行鞄を買いたいと言ったのでSさんが付き合うことになった。街はなぜが鞄屋が多い。ホテルを出るとすぐ、以前にセカンドバッグを買った小さな店があるし、露店のような店もひしめき合っているが、今日は弥敦道に出て尖沙咀を散歩しながら店を探してみることにした。

街角では売りマンション宣伝の紙袋が配られている。僕にも配られてきた。香港人に見えたのだろうか。少し嬉しい。見ると「東莞加州花園、楼価八万幾、�一定買得起」と書かれて、完成予定図のイラスト画がある。アルファベットで「CaliforniaGarden」の文字もある。8万というのはどういう値段なのだろうか。1戸ならばいやに安いし。1坪当たりの値段だと言う人もいたが、そうすると非常に高い。東莞というからには、中国だろうと思うのだが。

  少し大きめの鞄屋があり、店頭には目的のキャスターの付いたハードケースの鞄も見える。入ってみる。えんじ色のものが僕の趣味に合うようだ。早速、店員が寄ってくる。個人商店のようだからこの人がオーナーだろう。中を開けてみせてくれる。日本で売っているようなポケットがたくさんあったり、いろいろな仕掛があったりというようなことはなく、仕切の網があるだけのあっさりしたものである。もちろん鍵は掛けられ、取っ手が引き出せて転がして運べる。大きさも飛行機内への持ち込みができそうで申し分なく、気に入った。これに決めた。あとは値段の交渉である。

「ハウマッチ?」
 おやじは鞄に付いている値段票を見た。「$996」とある。約1000香港ドルか。目標を500におく。
「これの3割引でいい」
と日本語で言い、電卓をことことたたいて、値段を示す。「720」となっている。目標よりかなり高い。
「高いなあ」
「どうして高い?じゃあいくらならいいのか?」
 目標は決まっているので、とりあえず素直に告げる。
「500」
「500はダメ。700でどうか?」
 まだまだ値切れそうだ。ただどう進めていくか問題だ。口べたな僕には話題が浮かばない。
「じゃあ、これキープしといて。この辺をひと回りしてあとで決めるから。」
 と言いながら、出ていくそぶりを見せる。
「あとはダメ。今だからこの値段」
 出て行けば戻ってこないと思うのだろうな・・当然のことながら、おやじもなかなか客は手放さない。また少しおやじの言い値が下がってきた。680、650。
「まだダメか。じゃあいくらがいい」
「じゃあ550」
「ん、550。OK。それでいい」

ついに交渉成立。今は1香港ドルが約13、4円だから、7500円程度というところか。720に比べると2500円程度の値引きになる。仕入はいくらくらいなのだろうと思いながらお金を払う。550から比べてもそんなに安く仕入れているとは思えない。おやじもにこにこしているし、これくらいの値段が双方に利益があっていいのかも知れない。いずれにしても自分の趣味にあったもので、あまり高く感じることはなく店を後にした。
帰りの道では同じような鞄に特価の札が掛けられて売られていた。「特価$650」だった。
(日本に帰ってテレビショッピングを見ていると、同じスタイルで布製の物が1万9000円になっていた。なんか得した気分)
今ならわかります、東莞の8万元からのマンション。間違いなく1戸ですね。100万円ちょっとですからこの当時はこんなに安かったのですね。 もし60㎡程度の物件が8万元とすると1300元/㎡、当時にしてはけっこう高い印象。香港人向けに作っているのでしょう。

キャスターがついて引っ張っていく鞄はこの当時ほとんど使われていませんでした。で、この鞄を買ったときは嬉しくて自慢げに引っ張っていました。
そのうちこういう鞄が主流になってきて価格もずいぶん下がりました。
丈夫で好きな色だったのでかなり長く使っていたのですが、キャスター部分が壊れておしゃかさま。今は4代目の鞄を・・

香港・中国/若葉マークの頃【3】 買い物 3 - 中国東莞鳳崗工場で

1995年6月 By Sceneway

久しぶりにこの旅日記を見たら、深圳の今とは全く違う価格でした。給料が少なく物価が高い状況。確実に中国は豊かになっていると感じました。

1995年の旅日記から
香港・中国/若葉マークの頃【2】の散髪と公安で最初にちょい出したノーグッド兄ちゃんがメインで登場です。
今日はもう土曜日だ。香港人工場長のラウさんは香港へ帰ってしまった。にこにこしながら生産の副総監の梁さんがやってきた。
彼、梁さんは名前を「参徳」と書き、広東語での発音がサンタ、33才。彼の学校時代では普通話を習っていないそうだ。彼の後の年代から普通話を教わるようになったらしい。従って彼は広東語しか話すことができない。ただし普通話を聞いて理解することはできる。もっぱら彼とのコミニュケーションは筆談と片言の普通話と広東語である。

3年前は主任だったが、人がどんどん辞めていったため現在は副総監になった。総監は全部香港人のため、中国人の最高の役職ということになる。人はいいのだが仕事は少しちゃらんぽらんなところがあり、そのためか、ラウさんにはよく怒鳴られている。確かに自分ではあまり考えることがなく、早合点をして、僕たち日本人の所にやってきて「これノーグッド」を繰り返しては頭をかいて帰っていく。でも、目的や考え方をはっきり示すと、一生懸命達成しようという根性は僕には感じられていた。だから指導のやり方によってはある程度伸びる人間だと思っているのだが。僕が初めてこの工場に来た時に、一緒に仕事をしたり、カラオケに行ったりした一番仲のよい相手である。

彼がにこにこしながらやってきたのは、もちろんラウさんが香港へ帰って緊張がほぐれたからであろうが、それにしてもはしゃぎすぎると思った。かなりストレスがたまっているのかも知れない。以前だと、「これは自分がよくない。この仕事をうまくやらないとこれだ」と言い、首を切るゼスチャーでにっこりしていたものだが、今はそんな雰囲気がない。それでもこの四月には香港へ観光旅行をして、これは香港で××ドルで買ったと言いながら靴や時計を見せてくれるのだが。

  「ハハハーーー」といつもの調子で笑う彼に腕を引かれて工場を出ると、彼は市場の方へ歩いていく。市場へ行く途中にスーパーマーケットができている。まずそこへ入る。ここにはもう2、3度来ているがせっかくなので見て歩く。食品売り場の反対側にはテレビや洗濯機など電化製品が並べてある。ここはまだ見ていない。覗いてみる。25型位のテレビが10万円位となっている。以前はたしか20数万円位だったと思う。安くなったものだ。洗濯機は松下電器製の愛妻号が置いてあるが、その横には全く同じ形で愛妻型と書かれた中国製らしい洗濯機が数分の1の値段で売られていた。いずれをとってもここの人の給料を考えてると安いものではない。サンタに給料はいくらかと聞いても、なかなか言わないが、役職からみても3000元(約3万6000円)程度は貰っているはずだ。このサンタにしても25型のテレビを買うのに3ヶ月分の給料が必要である。
スーパーを出て商店や露店の立ち並ぶ通りにはいる。露店は主に果物を売っている。以前に比べると急速に物が豊富になってきた。たばこなども中国の免税店と同じ値段で売られていて、香港の免税店よりも安い。まずCDを買いにCD店に入った。深圳の方が安いが今の予定では深圳での時間がとれそうにないのでここで少し買っていくことにした。1枚20元となっているが、向かい合うもう一つの棚の物を手に取ってみると70元と書かれている。海賊版と普通の物との違いだろうか。もっとも高い物は買うつもりはない。20元の棚からテレサテンと高勝美、それに周恵敏のCDを買う。サンタは深圳なら13から15元だと言っている。去年は15元で買ったからまた少し安くなっているようだ。ここで10枚のCDを買っても日本では1枚も買うことができない値段である。プラスチックケースの品質はよくないが、音質はオリジナルと比較しても遜色ない。日本で信号の記録状態を調べてみたが全く問題はなかった。10枚買えば1枚くらいはずれもあるが、値段を考えれば気にする事はない。

お金を払うと手持ちの人民元はほとんどなくなってしまった。あとはいつもの店で両替をするか(噂では闇の両替らしいので、率はいい。)買い物を香港ドルで支払うかだが、日程を考えて両替はしないことにした。
果物なども見て歩いたが、茘枝はまだ少し早いため普通の倍くらいの値段がついている。バナナはこの前買ったし、リンゴはあまりおいしくないし、ということで見るだけ。

服屋でTシャツを探した。サンタは衿の付いたものが気に入っているようで、これはどうかと言うように身振りで示し、店員に値段を聞いている。そのとたんに僕の手を引いて外へ出る。どうも値段が高すぎたようである。次の店の展示品のTシャツを品定めする。サンタはチャコールグレーのものを勧めるが、もともとはで好きで原色派の僕は真黄色のものを選んだ。値段は28元。高いと言うと20元になった。展示品はシミはあったが、以前のように安かろう悪かろうという印象はない。確実に品質はよくなっているように思う。在庫の新品と取り替えてもらって買った。

会社に戻るとサンタはさっきのTシャツを指さして「チェック、チェック!」。Tシャツに着替えると少し大きいようだったが問題はない。サンタは「ベリーグー」。
久しぶりの鳳崗でののどかなひとときであった。
買い物
終わり
中国出張日記 深圳の駐車場の小姑娘

何でも無法地帯のように見えていた深圳。それだから楽しい思い出もあります。
イミグレを抜けて深圳に入ると待ちかまえていた少女たち、訪問者の手荷物を運んでチップをもらおうとやってきました。
深圳のある駐車場で会社の車が迎えに来るまでの小さな出来事。

香港・中国/若葉マークの頃【4】 中国出張日記 深圳の駐車場の小姑娘


1995年6月8日 By Sceneway
今度で3年目の中国東莞・鳳崗工場出張となる。出発前の話では深圳イミグレ近くの駐車場に6時半頃、迎えの車が来てくれるという事であった。僕は荷物を多く持って旅行などをするのは嫌いなので、なるべく持ち運びの楽な小さな鞄をというつもりだったが、そんなに物持ちでない僕のこと、少し大きいが、2年前に香港で550香港ドルで買った鞄を持ってきた。飛行機内に持ち込み可能という大きさで、キャスターが付いている。運ぶときは取っ手を引き出して使うようになっているものである。駐車場でうろうろしても荷物が邪魔になるようなことはないだろう。

6月8日、12時過ぎの全日空で関西空港を出発、午後4時、香港啓徳空港に到着。
香港に着いたら、香港の会社に電話を入れるように言われているので、公衆電話をかける。
「ミス・メイ・ウォン・プリーズ」
彼女は英語を話すが日本語が分からないので、たどたどしい英語で、今、香港に着いたことを伝えた。彼女はうなずいて、電話を別の人に替わると、日本語が聞こえてきた。香港の会社に日本語の分かる人を新規採用したと聞いていたが、その彼だろう。6時半以降なら何時まででも駐車場で車が待っていると、繰り返し伝えてきた。ありがとうと言い電話を切る。
タクシーでKCR九龍駅へ、電車で国境の駅、羅湖へ行く。いつものように深圳の2階の税関を抜けエスカレータで1階へ。いつもならここからタクシーのりばに向かうが、今日はタクシーのりばを横目に見て駐車場へ行く。外はあいにくの雨が降っている。雨といっても強めの小雨程度で、傘がなくてもまあ何とかなりそうに思える。気にせずキャスター付のバッグを転がせていく。雨に当たると見た目よりは雨が強かったが、会社の車が来るまで我慢するしかない。

歩き始めると10才位の2人の少女が寄ってきた。1人が傘をさしかけ、1人が鞄を持とうとする。振り切ろうとするが、相手もせっかく見つけた「獲物」なのだろう、そう簡単には引き下がらない。身振り手振りの押し問答を続けながら、駐車場までやってきてしまった。ここから会社の車が来ているかどうか、まず確認しなければならない。バッグを引きずって歩く。2人の少女もまだあきらめずについてくる。でも彼女らは明るくて嫌みな感じがなく、ここまで来ると情が移ってしまう。ポケットをさぐると2香港ドル硬貨が出てきた。バッグを持とうとしていた少女に与えるとすぐいなくなってしまった。現金さを感じる。

考えてみると、6時半までにはまだ1時間近くもある。もう一人の少女をお金を渡して振り切っても、あとからもまだまだ別の人がやってくるだろう。それならば、この少女に車が来るまでつきあってもらった方がいいのではないか。もう割り切ることにした。傘の少女には車が来るまで付き合ってもらい、この初めての機会を楽しんでみよう。この一人の少女につきあってもらうことは、他の野次馬のことを考えると具合がいいかも知れない。そう割り切ってしまうと、気分的にも楽しくなってきた。
気持ちを新たにして、彼女と一緒に駐車場を1回りしてみたが、やはり車はまだ来ていなかった。入り口に戻って待つことにした。少女はずっと小さい手で傘を差しかけてくれている。身長の違いが大きくて、持っているのが大変そうなので代わりに僕が持った。傘をどこから仕入れてきたのか、取っ手がなくなっている。
「買い物 2」の時の鞄を使っています。このときの鞄の写真が残っていました。フィルム写真なのでスキャナーで・・
鞄は奥行きがあってよく入りましたが当時飛行機への持ち込み可能サイズでした。その後、このタイプの鞄を持つ人が増えたからか持ち込み可能なサイズが小さくなってしまって持ち込めなくなりました

僕は顔立ちから中国人に見えるようで、台湾では一人で歩いていて台湾人に道を訊ねられたこともあるし、2人の中国人からは「あなたが日本人と言っても、私には中国人に見える」と言われたこともある。でもネクタイ姿にこの鞄では中国人に見えるはずはないだろう。そのためか、少女と二人でいると、雨の中、僕を外人と見て珍しいのか、また何かの「仕事」のネタになるのか、沢山の人が集まってきていろいろ話しかけてくる。中国も結構慣れたつもりでいたのだが、こんなに面識のないたくさんの中国人に囲まれ、話しかけられるのは初めてのことで少々どぎまぎしてしまう。しかし何が起こるかという期待感もあった。

この人達はどういう人たちなのかは分からないが、みんないい笑顔で話しかけてくれる。でも中国語なのであまりよく分からない。この辺りの広東語ではなく、普通話であるところをみると、出稼ぎの人たちであろうか。どこから来たか、タクシーはいらないかというようなことを話しているように思えた。片言の中国語で日本人である事と、会社の車が来るのを待っていることを告げると、一人のおばさんが大きくうなずき、中国語で確認してきた。どうやら通じたようである。

おばさんはどんな車が来るのか訊ねてきた。よく知らないが、ナンバーの下2桁が「76」だと告げる。香港に着いた時に電話で聞いていた。おばさんはバンかどうかと言っている。たぶんそうだと答える。

おばさんはこの少女のことを知っているらしい。関係を聞くと紙に「叫我姑姑」と書いた。私をおばさんと呼んでいる、という意味だろうか。身内かも知れないと思う。また「小姑娘没吃饭给钱卖饭」と書いた。「卖(売)」は「买(買)」の書き誤りかも知れない。この少女はまだご飯を食べていないからお金をやってくれと言うのだろうか。こちらは分からないふりをする。とてもそんなふうには見えない。が、こういう事でお金を稼いでいることは間違いないから、迎えの車が来たら少女にチップを渡さなければならない。この少女にいくら渡したものか、頭の中で計算してみた。
今、僕の行く工場で働いている人の最低賃金は月200元と聞いている。とすると1日10元足らずである。労働時間は9時間だから1時間当たり1元(この時米ドルは85円なので約10円)だ。するとこの少女にはたぶん約1時間付き合ってもらう事になるので、1元渡せばよいということになるが、工場の賃金は食住は支給されることを考えて5元とし、香港ドルで5ドル渡すことに決めた。ポケットには5ドル硬貨と1ドル硬貨が少しある。5ドルというと6、70円で少ないかとも思うが渡しすぎてはいけないという判断である。労働相応のお金でなくてはならないと思う。一般に気前の良すぎる人が多くて相場を釣り上げているような気がする。

一応、車が来るまでの「費用」を概算したところでゆっくり遊ぶことにした。少女にもう一度駐車場をみてみようと言うと、傘をさしてついてきてくれた。この少女は本当にまじめな印象を持つ。おばさんは鞄を見ていてやるからここに置いていけ、と身振りを添えて話している。僕にはこの人達が悪い人たちには思えず、それに従うことにした。パスポートは上着の内ポケットだし、全財産の入ったセカンドバッグを持って行くので、最悪の事態は防げる。
今は地下鉄もでき、羅湖駅前イミグレ前も全面改装されているのでこのときの面影は全くありません。今から考えるとのどかな状況でした。

当時の写真はないのですが、これは2001年、地下鉄工事が始まっていない頃のイミグレ前、10月の国慶節で大混雑の模様。当方、これに少し並んだのですが30分経っても全く動かず、恐れをなしてマッサージに行って夜10時頃に香港へ帰りました。混雑がうそみたいになくなっていました。
手前のタクシーの通っている道を左に行くと、タクシー乗り場、駐車場がありました


やはり車はなかった。あとは待つしかない。さっきの人たちはもういなくなっていた。雨は相変わらず降り続いている。少女は駐車場の小さな管理所を指さし、何か話している。少しだが軒下があり、少しは雨がしのげそうだ。あの軒下に移動しようということか。二人で移動する。軒下に来てしばらくすると、また男が一人、にこにこしながら話しかけてくる。さっぱり解らない。彼女は僕に向かって「ヨウチャ」と言えと言う。はて・・・、あっそうか。有車、車があると言えと言っているのだ。更に彼女は僕に向かっていらいらしそうになりながら繰り返す。「ヨウチャ」。きれいな発音だ。この車という発音は非常に難しく、僕には未だに発音することができないでいるのに、この少女はいとも簡単に発音している。タクシーの呼び込みらしい男は去って行った。

いつの間にか、また一人少女がやって来て側に立っていた。この子は落ち着いた感じを与え、話しかける訳でもなく、ただ横にいるだけだ。もっとも、僕は傘の彼女だけと決めているので、そのほかの人の世話を受けるつもりはない。傘の彼女にと話をする。
「你家在那里」
答えられても解らないだろうが、故郷はどこかを訊ねると
「ホアナン」と言う。
ん、やっぱり解らない。「不明白」と答えると、もう一人の少女は極めてゆっくりと、きれいな発音で「ホアナン」と言い、掌に「華南」と書いた。華南地方はどんな方言なのか知らないが、この子達は普通話が話せるのだろうか。僕はまだ片言の会話しかできないが、彼女らの発音は台湾の発音とも違っていたし、僕には普通話の発音に聞こえる。学校で普通話を学んでいるにしろ、どう見ても十才程度にしか見えない彼女らの語学力はどんなものだろうか。
しばらくすると、さっきのおばさんが何やら言っている。車が来たようだ。少女は「76」と言っている。車を見ると確かに最後のナンバーが76になっている。間違いない。少女に5ドルコインを渡して車に乗り込んだ。どこからやってきたのか、沢山の人が集まってきて手を出す。訳が解らないが、関係した人に1ドルコインを渡す。それ以外の人も迎えの車の運転手にくいさがる。いつもこうなのかどうかは分からないが、初めての経験で少なからず驚いた。運転手は会社の雇われ運転手で、もちろん中国人である。適当にあしらって車を走らせた。

僕にとっては楽しい駐車場での出来事であった。再び駐車場に行く機会ができ、同じ体験を期待したが、同じ道を通ることができなかった。駐車場に向かう駅の出口がシャッターで閉ざされてしまったのである。駐車場に行くのには、タクシーのりばを大回りしなくてはならなくなった。前の出来事が影響しているのだろうか。僕にとっては楽しかったのではあるが、人民政府にとっては面白くないのかも知れない。その気持も分かるが、僕には残念であった。ただ駐車場付近を歩くと、いつものようにタクシーの呼び込みが盛んではあったが、もうあの少女達と会うことはないかも知れないと思うと少し寂しい気持が残ってしまった。
これは1995年のことです。お金は相場を上げないよう注意して金額を決めたのですが、今、この出張日記を見ると最後で彼らが叫んでいたのは金額が少なかったのかも知れません。
んー、でもやっぱり当時としてはこれぐらいの金額が妥当でしょう。

このあと、イミグレの出口からこの駐車場へ抜ける近道は封鎖され、さらに公安の手配によるものか、たくさんいたこの種の人々がいなくなりました。
雨の日などは鞄を持ってくれる人がいると楽ですし利用方法もあるなと思っていた矢先だったしちょっと残念でした。



最近は治安を維持するために混雑地ではこういう電気自動車のパトカーがよく走っています




中国出張日記 駐車場の小姑娘
終わり
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2007-03-25 コメント(2)
中国出張日記 鳳崗から広州旅行

私が初めて海外に出たのが1991年11月18日からひとりで4日間の韓国出張。翌92年1月11日から5日間友人を訪ねての旅。
そして92年4月11日から2ヶ月半、仕事で台湾高雄へと、海外が続きました。その後本格的にアジア進出を考えて1992年11月転職、日本で設計、香港の会社を通じて中国で生産という会社に入社し、1996年8月香港に出て就職するまでの数年は年1ヶ月ぐらいの中国生活(時々香港)となりました。

1993年6月28日から1週間ほどこの会社で初めての中国出張をしたあと8月に1ヶ月の滞在。そのしめくくりに広州旅行を考えました。

香港・中国/若葉マークの頃【5】 中国出張日記 鳳崗から広州旅行

1993年9月18日-19日 By Sceneway
「えっ、やっぱりだめか。......。もう運ちゃんに今日行くと話をした。それじゃ断ってくるよ。問題ない」
本当にせっかちなやつだ。自分が広州に行きたいものだから勝手に話を進めてきてしまっている。今日は仕事の都合でどうなるか分からないと言ったのに。

今回この中国東莞工場に来てもう三週間近くになる。ここは深圳・羅湖駅からタクシーで約1時間あまり、東莞市南部の鳳崗鎮という所にある香港の会社の生産工場で約2000人が働いている。僕は自分の設計したステレオセットの生産のための技術指導ということでここに出張している。現在日本人は他に2人いる。僕と同じ会社の同僚で生産技術担当のH氏と、ここの生産ラインとワーカーの一部を借りてスピーカーの生産をしている某メーカーのOさんである。Oさんは5年の約束でこの工場に出向している。もう1年余りになると言う。

帰国する前に休みを利用してここから近い広州へ行きたいなと、今日の昼、せっかちな通訳の曹さんと雑談をしていたのだ。明日は日曜日である。この工場で社用車の運転をしている温さんという女性が広州出身だから、彼女に案内を頼めばいいと曹さんは言っていた。その彼女にもう話をした、と言うのだった。今日は仕事の都合でどうなるか分からないと言っておいたのに。

「キャンセルしてきた」
曹さんが戻ってきて報告する。
「運ちゃんは家に連絡をしてベッドを二つ用意した、と言っていたけど、キャンセルしてきた」
罪悪感が走った。でもしょうがない。温さんごめん。でも残念。中国の民家に宿泊できるチャンスをなくしてしまったからだ。Oさんは、民家に宿泊した経験があるらしく「ただ硬いベッドがあるだけでとりたてて面白いもんとちゃうで」と言う。でも、中国のホームステイもしてみたいという気持ちがあったのでやっぱり残念だった。
曹さんは工場でただ一人日本語の解る中国人である。彼は上海近くの無錫市の出身で、ここに来た当初、ここで話されている広東語が全く解らず、外国に来たようだったと言う。中国は広い。地方によって言語が大きく異なる。
愛知県豊橋で一年間ほど仕事をしていたと言っている。彼の自慢の一つはこの工場でパスポートを持っているのは自分だけだということだ。しかしながらパスポートの期限がとっくに切れているため実際は”持っていた”と言う方が正しい。しかしこの中国、期限が切れていてもけっこう役に立つものらしい。

ここは深圳経済特別区から外れているので、経済特区へ入るには、僕のような外人はパスポートを見せなければならないし、中国人の場合、人民政府発行の許可証が必要である。ところが彼はこの期限の切れたパスポートを見せて入区すると言って自慢している。それでも「このパスポートには深圳のビザがない」などと訳の分からぬことを言われて通してくれないこともあるらしい。期限切れはいいの?
「その時はどうするねん」と訊ねると、「窓口を換えれば入れてくれる」とあっさり言う。まあどっちもどっちのおおらかさというか、いい加減さに笑いころげた。

また彼は通訳する相手に関西人が多く、コンビのようにしているOさんが堺出身でベタベタの関西弁で曹さんと話す事もあって、時々関西弁が混じるようになっている。
「おまえ、そんなこと言うたかてやな、これこれこないしてやな、こうしとかな あかんやないけ」
「どうしてあかん。しょうがないじゃないか」
という具合にOさんと曹さんのやりとりが進行する。これでは必然的に関西弁を理解していく。ある時、僕が曹さんに、
「お前の日本語は関西弁が混じってるやないか」
と言うと
「そんな事はない。豊橋にいた時はみんなに標準語だと言われた」
気がついていないのか、そう思いたいのか必死に否定する。しかしこれ以後、意識するようになったのか、時々おどけて関西弁を使うようになった。極端な自分本意さを除けばなかなか面白い男なのだ。

さて広州行きを逃した次の週の土曜日、今日はどうやら行けそうな雰囲気になってきた。同僚のHさんも誘うと、Hさんは香港へ行くからいいと言う。今度は真剣に曹さんと打ち合わせた。そうしている内にOさんも行く事になった。曹さんは誰か女性を誘うと言い、誰彼なしに声をかけている。そう、彼は女好きでもあるのだ。仕事中でもきっかけがあれば、すぐ女性と話したがる。彼は自分では女好きという事を認めないが、誰の目からみても明らかだ。僕はといえばやっぱり女性がいれば楽しいから、「又だ」と思いながらも秘かに勧誘が成功する事を祈った。

結局、PE部(PRODUCTION ENGENEER、生産技術)の女性が来ると言ってきた。彼女は廖さんといい、今までにも共に仕事をしたことのある協力者である。彼女なら問題ない。彼女は女性一人で行くのに少し抵抗を感じるということで、彼女の友達、朱さんも一緒でもいいかと言ってきたので即座に「いいよ」と答える。当然。
先週失礼をした温さんは、今、休暇をとって広州へ帰っているという。温さんのお姉さんの家に電話があるので、お姉さんの家に電話をして連絡をとった。温さんは広州の駅まで迎えに来てくれるらしい。結局中国人4人、日本人2人の総勢6人という人数になった。うまい具合に男3人、女3人となる。

「○○さん きょう コンジャウ(広州)? 」
丁氏が来て日本語で僕にそう囁いた。丁氏はこの工場の総管で工場長に次ぐ地位にある。「うん」と頷くと、「仕事が終わってからでは遅い。5時頃出た方がいい」と言う。「終業は6時なのに問題ないのか」と訊ねると問題ないという。
5時前、丁氏がやって来て、車で送ると言う。曹さんには外出許可証にサインをしてくれた。社用車のワゴンに丁氏と運転手、それに僕たち旅行組5人が乗り込んだ。丁氏は同行の女性2人を見つけ、僕に振り向いてにっこりし、手で頑張れと合図をする。エアコンのきいた社用車で幸先よく出発した。快速列車の停車する樟木頭という駅まで30分ほどドライブする。
駅に着き、彼女達に切符を買ってもらう。切符には「空調硬座普快、樟木頭 至 广州」と書かれている。14元。中国の列車には硬座と軟座がある。軟座はいわゆる一等車である。買ったのは硬座であるが空調がついているのでいい方だそうだ。それにしても広州まで1時間以上かかるというのに14元(約170円)とは安い。一番安い硬座で10元位らしい。本当なのかうそなのか、軟座になると香港ドルで100ドル(約1300円)以上もすると言う。パスポートが無ければ乗れないという話も聞いた。香港からの広州直通の国際列車も走っているせいだろうか。

次の列車まで1時間くらいあるので駅構内のレストランで夕食を食べることにした。僕にはメニューを見ても分からないので曹さん達であれこれ注文をする。時間も十分あると思っていたのに料理がなかなか出てこない。曹さんがウエイトレスに催促をするがいっこうに効果がない。待つこと約30分。やっと少しずつ料理が運ばれてきた。曹さんが女性達に、時間がないから早く、早くと急がせている。工場の近くのレストランはすぐ出てくるというのに。ここは公営レストランなのかも知れない。

改札口には長い行列、というより雑然と改札を待っているたくさんの人の群れがあった。改札口がやっと開いてホームへ降りる。中国語ではホームのことを月台(ユエタイ)と言う。その優雅な名前とは裏腹にホームはごった返している。中国で初めて列車に乗るのはもうすぐ、わくわくする。列車が入って来た。のんびりしていては中に入れそうにない。人を押しのけ押しのけ入っていく。大きな車両で、シートは両サイドに3人掛けになっているが、3人座っていても余裕があれば、席を詰めて座らせてもらってる人もいる。天井も高く棚にでも人が寝られそう。しかし既に車内は満員で空席はなく、通路にひしめき合って立つ。満員の人を乗せて列車はコンクリートの枕木の上をゆっくりと動きだした。快速といってもスピードはそんなに速くない。時速40キロくらいだろうか。この調子で広州まで行くようだ。どこからか台湾の流行歌が聞こえてくる。僕が好きな台湾歌手が歌う「千年等一回」というテレビの主題歌。

車内アナウンスで、料金を払えば軟座に変更できると言っているらしい。曹さんが変わりたいような顔をしてそう言ってきた。しかし満員で身動きがとれず、軟座の車両までいくのは不可能である。樟木頭駅を出て1時間半ほどして、やっと広州の駅についた。もう日はほとんど暮れている。
この頃の広州はまだ古い町並みで駅前には大勢の群れでびっくりしました。久しぶりに最近行った広州は深圳ほどではありませんが大きく変わっていました



人口700万人の広州市の広州駅前は、どこにこれだけの人がいたのかと思うほど大変な人混みである。ちょうどラッシュの大阪の地下街にいるようなものだ。職を求めて地方からやって来ている人も多いようだ。駅前にはそんな感じの人が多くたむろしている。人混みの中を5人で歩いていくと、運よく迎えに来てくれている温さんを見つけることができた。今日の電話で温さんにホテルの予約をとってもらっていたつもりだったが、部屋が空いていることは確認しているが予約はしていないと言う。そのホテルまで歩いて10分くらいだと言うので歩くことにした。歩いて見ると「〇〇招待所××元」と書かれた看板が多く目につく。招待所とは簡易宿泊所のことで、60元から120元くらいの価格になっていた。僕も中国では工場の近くの招待所に宿泊しているが、そこは公安局(警察)の経営で135元である。部屋は広くツインで、バス、トイレが付く。25型くらいのカラーテレビと効きの悪いクーラーがあり、贅沢を言わなければ充分だ。このことから判断をすれば、大体どんな部屋かという想像はつく。

Oさんは僕に気を使ってか、以前からちょっと豪華なホテルに泊まってみたいと思っていたと言う。したがって、これから行くホテルはちょっと豪華、広州では最も高いホテルの部類に入るらしい。あとの3人は僕たちのホテルのチェックインが済んでから探すという。
ホテルが見えてきた。確かに豪華そうな感じで明るく電飾された建物が2つ並んでいる。その1つがめざす「東方賓館」というホテル。チェックインカウンターでは中国人の同伴者達に手伝って貰いながら交渉をする。結局、Oさんと共にツインに宿泊することにした。兌換券490元。日本ならビジネスホテルでも難しい値段だ。Oさんのクレジットカードを使う。

このホテルは人民元、兌換券、香港ドルなどを使用することができる。普通外国人は外貨と交換できる兌換券を使う。外貨の流出を防ぐため人民元は外貨と交換できないようになっているらしい。人民元は1元約12円、兌換券は1元約18円。(1994年1月から兌換券は廃止された。)

部屋へ行こうとすると中国人の代表として部屋を見学に行くと言って曹さんがついてきた。部屋にはいると香港のホテルの部屋よりも格段に広い。再びロビーに戻り少しみんなでおしゃべりをしてから、彼らは自分達だけで宿泊所を探すから、Oさんと僕はゆっくり休めと言い残して出ていった。少し後味が悪い。みんな同じ宿泊所の方が良かったのだけど・・
部屋に戻って、香港のホテルへ同僚のHさんに電話をする。英語には中学以来、全く自信がないので簡単な単語を使い、多くを言わないように気をつける。
「Hさん プリーズ」
日本語の「さん」はたいてい通用する。一瞬の沈黙の後、アルファベットで名前を言ってくれと言う。アルファベットで名前を告げると「Not yet 」。それではと、今日そのホテルに泊まっている筈の上司を呼んでもらって自分が広州にいることを報告した。

温さんから電話がかかってきた。宿泊所を探したが見つからなかったので温さんの家にみんな泊めるという。自分の家に泊めるため見つからなかったと言ったのかも知れない。曹さんが一つのベッドを使い、女性三人が一つのベッドで寝るという。ごめん。
 さあ明日は広州観光だ。ゆっくり寝ておこう。


朝、曹さんがロビーから僕たちの部屋に電話が入った。彼女らが部屋を見たがっているのでみんなで部屋へ行ってもいいかと言う。すぐやって来てソファに座ったりみんなで写真を撮ったりした。そのあと、ホテルの庭園を散歩してホテル内のレストランで飲茶の朝食をとる。地元の人もたくさん来ているようで、中国人も多い。雰囲気もいいし味もなかなかいける。6人で117元也。1人あたり日本円で250円。

タクシーに乗り陳氏書院という所へ行く。女性3人と男性3人に分かれてタクシーに乗る。タクシーの中では曹さんが日本語で喋りまくり。そのためかタクシーは遠回りをして高くついてしまった。僕たちのタクシーが陳氏書院につくと、女性達は既に着いていた。僕たちは11元のタクシー代だったのに、彼女らは9元だったらしい。間違いなく曹さんが日本語でぺらぺら喋りまくったからだろう。
おまけに彼女らが入場券を買ってくれている時も、その前で彼は僕たちに日本語でぺらぺら喋りまくった。そのおかげで売り場のおばさんに台湾人だろうといわれて、外人用の高い入場券を買わねばならなくなった。ほんとにもう。入場券には「参観票、1元5角」と書かれている。ただし、「調整票価4元」と赤いはんこが押してあった。
結局中国人の倍以上を払うことになった。 もっとも倍以上といっても20円か50円かという話だけど・・

この建物はどういういわれのものか僕には分からない。案内が中国語で、漢字が並んでいる。読んでみるが、たまに解る程度でさっぱり分からない。あきらめて民芸品の陳列を見ると両面刺繍が並んでいる。直径20センチぐらいの小さなものだが、けっこういい。
この頃はまだ兌換券が使われていたのですね。思い出しました。私は持ったことも使ったこともないのですが、当時うわさには聞いていました。私が行っていた頃は香港ドルで大丈夫でした。

そして入場券、この頃は至る所に外人用の値段があったようです。こういう入場券や飛行機のチケットなど。これが不評でそのうち是正されて同じ価格となりました。

六榕寺へ行くため、中山七路を歩く。人、人、人。途中でCDを売っている店を覗いてみた。香港や台湾のCDのコピー版が多い。店員はしばらく様子を伺っていたが、僕が日本人だとわかると谷村新司、山口百恵のCDを薦めてきた。谷村新司のCDのジャケットには「日本天皇巨星」と書かれている。曹さんが昴、昴と言っているので、谷村新司を曹さん用に買った。


周恵敏
以前テレビで絶句するような香港の美人歌手を見たことがある。どうあら探しをしてもあらが見つからない、完璧な美人のように思えた。周恵敏。そのCDがあったのでこれも買う。他に広東で有名な香港の歌手のと計3枚を買った。3枚で100元足らず。日本円で1枚350円ぐらいだった。(1年後、CDは1枚15元になっていた。)

香港人に香港人の有名な歌手を手帳に書いてもらい、それに基づいて買っているが、たいてい香港、台湾のCDのコピーだ。録音できる時間いっぱいに曲が入っていてお得感がある。たいていは70分前後入っている。CDの規格では最大75分弱の記録ができるが、買ったCDの内、2枚はこの時間を越えていた。

六榕寺は歴史もあるが、六榕塔へ登るのが目的のようだ。塔は外観9層、内部17階。高さ57メートルというから、京都の東寺の塔とほとんど同じ高さである。内部は非常に狭く、階段ばかりという感じを受ける。狭い内部にたくさんの人がつめかけているため、階段を一段一段、体を小さくして登っていく。息を切らせて最上階まで登ると広州の市域が眼下に広がり、なかなかいい眺めである。
塔のまえで線香を供えるがこの線香にびっくり。日本のものとは別物のように格段に太くて長い。色も鮮やかな黄色である。見ていると三本まとめて供えるらしい。

六榕寺を出て、再び歩いてレストランへ。中華レストラン。ここで昼食をとる。温さんがみんなに希望を聞きながら注文をしてくれる。北京ダックや水餃子のようなものもあったが、他は何の料理か僕には解らない。さすがに北京ダックはどこで食べてもうまい。6人でたらふく食べる。余った分を「お持ち帰り」する。1人あたり約500円也。
昼食を済ませてバスに乗る。さすがに700万の人口を擁する街らしく2台連結された大型のバスだ。それでもこれも満員。目的地で降りられるように態勢を整える。科技書店という本屋に行かなければならない。
僕は技術指導ということで中国工場に来ているが、今回、工場で初めてCD付きのステレオセットを生産するため、生産技術の人を対象にCDの初歩技術の講習を行なった。若い人々は技術力をつければ給料が上がることもあって講習を喜んでCDに興味を持ってくれたようだった。しかしCDのことを知るにも参考書が無いと言う。曹さんに話したところ、広州の科技書店にあることがわかり今回寄ってみることにしたのである。

書店は名前からも解るように専門書を扱う書店であるにもかかわらず、大勢の人で賑わっている。曹さんと僕とで探すことにした。技術書は3階にあるようだ。そんな風の張り紙がある。曹さんを誘い3階へ行くと、すぐ見つけることができた。書名は「激光唱机激光影碟机・大全」、レーザーディスク、CD大全ということか。激光がレーザーのこと。本は上、中、下の3冊に分かれていて、1冊が2、300ページぐらいある。3冊で28元とこれまた非常に安い。どういう訳か、「中」の本が1冊もない。しかたなく「上」と「下」の本を3冊ずつ買う。PE部へのおみやげ用と自分用である。上は8元、下は11元だった。上巻は主に日本製のCDプレイヤーの性能が書かれ、下巻にはCDプレイヤーの調整方法と各集積回路、ICの仕様を中心に書かれていた。

科技書店を出ると、Oさんと温さんがいない。お茶を飲みに行ってくる、と言って向かいの百貨店へ行ったらしい。百貨店の7階の喫茶店に、2人でコーヒーを飲んでいるところを見つけることができた。僕たちもコーラを飲んで休憩する事にした。
タクシーで中山記念堂へ向かう。彼女達と曹さんが入場券を買って戻ってきた。今度は台湾人だと言われたそうだ。どうもタクシーで乗り付けた為らしい。曹さんが文句を言うと、「お前も台湾人でなければ身分証を見せろ」と言われたと曹さんがぶつぶつ言っている。ごまかすのも難しい。
中山というのは孫文のことで、広州を訪れた台湾人は必ずここへ来るという。台湾人と思われたのもそのせいかも知れない。広い場内の記念堂に入ると台湾人らしい団体さんが説明を受けていた。
今回最後に訪れたのは「黄花崗七十二烈士の墓」というところで、1911年に広州の黄花崗で反清の兵を挙げ、戦死した72人を葬ったところということだ。
墓の近くの低くなった所にひっそりと小さな建物が建っている。売店らしい。Oさんが誘ってくれ中に入る。陶器や掛け軸など土産品を売っていた。
奥には両面刺繍が並んでいる。直径20センチぐらいの物なら日本円で2、3000円程度。買って帰ろうかと考え始める。同じ買って帰るなら大きい物がいいかも知れない。
眺めていると店の女性が声をかけてきた。中国語で話してくる。標準語だ。断片的に解るが、ここは曹さんに通訳して貰いながら話を聞く。40センチぐらいの大きい物は950元だと言う。

台湾のお茶だと言ってお茶を出してくれる。飲んでみると、確かに台湾のお茶の味がする。
思案の末に、直径40センチぐらいのおしどりが刺繍された物を買うことに決め、値段の交渉に入った。950元というのは国の役人が決めたもので、私は個人でやっているから750元でいいという。
香港ドルにして630香港ドルで買うことになった。

(この頃は香港ドルがかなり高かったのです。元々は人民元が高くて1人民元が1.3香港ドルだったといいます。その後逆転、1香港ドルが1.3人民元ぐらいになり徐々に人民元がもり返して1香港ドルが1.05人民元ぐらいになって落ち着きました。最近人民元が切り上げになり、以後じわじわと高くなって再びレートが逆転。

めまぐるしく、訳が分からず過ぎた1日もだんだん時間がなくなってきた。2台のタクシーに分乗して広州西駅に向かう。帰りは奮発して2人でお金を出し合って軟座にしようとOさんと話を決めた。6人で600ドルか・・温さんに切符を頼む。温さんが戻ってきて軟座は既に満員だったと言う。買ってきたのは軟座とは正反対の一番安い硬座だった。1人9元だったと思う。雲泥の差。
ホームへ行くと列車はすでに満員で余っている座席など夢にもない。苦しい立ち席となりそうだ。Oさんが食堂車で座ろうと言う。4人が食堂車で座った。Oさん、温さん、曹さん、それに僕。廖さんと朱さんは食事は要らないと言い、普通の車両に行った。

列車が動き出すと、食堂車のおばさんが何やら言っている。曹さんの説明によると、「食堂車にいる人は40元以上の注文をする事、また途中の駅で客の入れ替えをする」ということだ。あーあ。しかもメニューを見ると、40元以上で探してみると、どう組み合わせても50元ぐらいになってしまう。うまく考えたものだ。ともかくおなかも減っていることだし注文する。料理はお世辞にもうまいとは言えない。かなり損をした気になる。温さんが食堂車の入り口に立っている香港人らしい紳士と話をしている。見た感じが中国人とは違うのだ。僕が「ホンコン ピープル?」と紳士に訊ねると彼は頷いた。温さんが僕が日本人であることを説明している。

入れ替えの駅で食堂車を出て、廖さん達の所に移る。曹さんに、さっき温さんと香港人と何を話していたのか聞いてもらう。

香港人「どうして料理をたくさん残しているんだ?」
温さん「こんなに料理がまずいのに! それに40元以上と言いながら、40元丁度にできないようになっている。50元もかかってしまった」

とまあ、こんな調子だったらしい。
本当に今日はあわただしく過ぎて、列車はいろいろな愚痴を乗せて走っていく。
「もうすぐだよ」
曹さんが言っている。外は真っ暗で、僕には今、列車がどこを走っているのか全く分からない。温さんがもうすぐだと言っているらしい。列車が止まり、ホームに降りても真っ暗でまだよく分からない。どうしてこの駅だと分かるのだろう。

駅を出ると駅前には、乗客を当て込んでタクシーがたくさん止まっている。タクシーと言っても、小型トラックをタクシーとして使っているだけのことのようだ。クーラー付きらしいハイエース風のワゴンもあった。出て行こうとしている。Oさんがそれに乗ろうと叫んでいる。しかし温さんは高いから駄目だと言う。普通の小型トラックのだと40元ぐらいなのに、そのワゴンは60元だと言っているそうだ。どうも温さんはしまり屋のようだ。もしかしたら軟座のチケットも売り切れではなかったのかも知れない。
結局、小型トラックのタクシーに乗る。座席が4つしかないので、2人が後の荷台に乗る。女好きの曹さんが廖さんと一緒に乗り込んだ。喋っていると舌を噛みそうなサスペンションで、小型トラックタクシーは帰途を行く。

お疲れさま。やっと戻ってきた。列車で食事をしなかった廖さんと朱さんのため近くのレストランへ曹さんを誘っていく。2人は僕に気を使ってか余り値の張るものを注文しない。僕は卵ととうもろこしの入ったスープ、中華スープだけを頼んだ。「粟米×××」という名前だそうな。粟米とは、とうもろこしの事だそうだ。このスープは非常においしい。日本人にとって違和感なく食べられる数少ないものである。廖さんと朱さんも、おいしい、おいしいと言って食べてくれた。
3人を誘い、僕の泊まっている招待所でシャワーを浴びるていくことにした。
工場で働く彼、彼女達は寮に住んでいる。一度夜遅く寮を見学したことがあるが、寮は倉庫のような部屋で、コンクリートむき出しの床に鉄パイプの2段ベッドを置いただけの粗末な所である。ベッド以外にはスペースは余りのこっていない。テレビで上海の日系企業の寮を放映しているのを見たことがあるが綺麗すぎてびっくりしてしまった。こっちはそんなのとは無縁で部屋には役職によって違うが、彼女達の場合10人が同室している。曹さんは4人部屋である。寮の隣の洗濯場では水で髪の毛を洗っている彼女達を見たことがある。冬になると湯を会社から買って洗うそうだ。
だからたまには熱いシャワーもいいのではと思い誘ってみたのである。

彼女らは、始め髪の毛だけを洗うつもりだったようだが、そのうちシャワールームのドアを閉めてシャワーを使いだしたようだ。曹さんと僕はその間、梨を食べながら話をする。女性達にも梨を残しておかないと、と言うと、梨は男女一緒に食べてはいけないと言う。梨と離が同じ発音なので一緒に食べると別れてしまうということらしい。なるほど。
彼女達のシャワーが済み、曹さんと交代した。時刻はもう11時を過ぎている。彼女達の髪の毛を乾かせているドライヤーの音を聞きながら、中国の休日は過ぎていった。
この1993年当時は列車に乗るのもなかなか骨が折れることでした。でも中国で初めての列車の旅行は十分に私の好奇心をそそっていい思い出になりました。
皆さんありがとう。
中国出張日記 鳳崗から広州旅行
終わり
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2007-04-09 コメント(17)

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