中国出張日記 鳳崗から広州旅行

私が初めて海外に出たのが1991年11月18日からひとりで4日間の韓国出張。翌92年1月11日から5日間友人を訪ねての旅。
そして92年4月11日から2ヶ月半、仕事で台湾高雄へと、海外が続きました。その後本格的にアジア進出を考えて1992年11月転職、日本で設計、香港の会社を通じて中国で生産という会社に入社し、1996年8月香港に出て就職するまでの数年は年1ヶ月ぐらいの中国生活(時々香港)となりました。

1993年6月28日から1週間ほどこの会社で初めての中国出張をしたあと8月に1ヶ月の滞在。そのしめくくりに広州旅行を考えました。

香港・中国/若葉マークの頃【5】 中国出張日記 鳳崗から広州旅行

1993年9月18日-19日 By Sceneway
「えっ、やっぱりだめか。......。もう運ちゃんに今日行くと話をした。それじゃ断ってくるよ。問題ない」
本当にせっかちなやつだ。自分が広州に行きたいものだから勝手に話を進めてきてしまっている。今日は仕事の都合でどうなるか分からないと言ったのに。

今回この中国東莞工場に来てもう三週間近くになる。ここは深圳・羅湖駅からタクシーで約1時間あまり、東莞市南部の鳳崗鎮という所にある香港の会社の生産工場で約2000人が働いている。僕は自分の設計したステレオセットの生産のための技術指導ということでここに出張している。現在日本人は他に2人いる。僕と同じ会社の同僚で生産技術担当のH氏と、ここの生産ラインとワーカーの一部を借りてスピーカーの生産をしている某メーカーのOさんである。Oさんは5年の約束でこの工場に出向している。もう1年余りになると言う。

帰国する前に休みを利用してここから近い広州へ行きたいなと、今日の昼、せっかちな通訳の曹さんと雑談をしていたのだ。明日は日曜日である。この工場で社用車の運転をしている温さんという女性が広州出身だから、彼女に案内を頼めばいいと曹さんは言っていた。その彼女にもう話をした、と言うのだった。今日は仕事の都合でどうなるか分からないと言っておいたのに。

「キャンセルしてきた」
曹さんが戻ってきて報告する。
「運ちゃんは家に連絡をしてベッドを二つ用意した、と言っていたけど、キャンセルしてきた」
罪悪感が走った。でもしょうがない。温さんごめん。でも残念。中国の民家に宿泊できるチャンスをなくしてしまったからだ。Oさんは、民家に宿泊した経験があるらしく「ただ硬いベッドがあるだけでとりたてて面白いもんとちゃうで」と言う。でも、中国のホームステイもしてみたいという気持ちがあったのでやっぱり残念だった。
曹さんは工場でただ一人日本語の解る中国人である。彼は上海近くの無錫市の出身で、ここに来た当初、ここで話されている広東語が全く解らず、外国に来たようだったと言う。中国は広い。地方によって言語が大きく異なる。
愛知県豊橋で一年間ほど仕事をしていたと言っている。彼の自慢の一つはこの工場でパスポートを持っているのは自分だけだということだ。しかしながらパスポートの期限がとっくに切れているため実際は”持っていた”と言う方が正しい。しかしこの中国、期限が切れていてもけっこう役に立つものらしい。

ここは深圳経済特別区から外れているので、経済特区へ入るには、僕のような外人はパスポートを見せなければならないし、中国人の場合、人民政府発行の許可証が必要である。ところが彼はこの期限の切れたパスポートを見せて入区すると言って自慢している。それでも「このパスポートには深圳のビザがない」などと訳の分からぬことを言われて通してくれないこともあるらしい。期限切れはいいの?
「その時はどうするねん」と訊ねると、「窓口を換えれば入れてくれる」とあっさり言う。まあどっちもどっちのおおらかさというか、いい加減さに笑いころげた。

また彼は通訳する相手に関西人が多く、コンビのようにしているOさんが堺出身でベタベタの関西弁で曹さんと話す事もあって、時々関西弁が混じるようになっている。
「おまえ、そんなこと言うたかてやな、これこれこないしてやな、こうしとかな あかんやないけ」
「どうしてあかん。しょうがないじゃないか」
という具合にOさんと曹さんのやりとりが進行する。これでは必然的に関西弁を理解していく。ある時、僕が曹さんに、
「お前の日本語は関西弁が混じってるやないか」
と言うと
「そんな事はない。豊橋にいた時はみんなに標準語だと言われた」
気がついていないのか、そう思いたいのか必死に否定する。しかしこれ以後、意識するようになったのか、時々おどけて関西弁を使うようになった。極端な自分本意さを除けばなかなか面白い男なのだ。

さて広州行きを逃した次の週の土曜日、今日はどうやら行けそうな雰囲気になってきた。同僚のHさんも誘うと、Hさんは香港へ行くからいいと言う。今度は真剣に曹さんと打ち合わせた。そうしている内にOさんも行く事になった。曹さんは誰か女性を誘うと言い、誰彼なしに声をかけている。そう、彼は女好きでもあるのだ。仕事中でもきっかけがあれば、すぐ女性と話したがる。彼は自分では女好きという事を認めないが、誰の目からみても明らかだ。僕はといえばやっぱり女性がいれば楽しいから、「又だ」と思いながらも秘かに勧誘が成功する事を祈った。

結局、PE部(PRODUCTION ENGENEER、生産技術)の女性が来ると言ってきた。彼女は廖さんといい、今までにも共に仕事をしたことのある協力者である。彼女なら問題ない。彼女は女性一人で行くのに少し抵抗を感じるということで、彼女の友達、朱さんも一緒でもいいかと言ってきたので即座に「いいよ」と答える。当然。
先週失礼をした温さんは、今、休暇をとって広州へ帰っているという。温さんのお姉さんの家に電話があるので、お姉さんの家に電話をして連絡をとった。温さんは広州の駅まで迎えに来てくれるらしい。結局中国人4人、日本人2人の総勢6人という人数になった。うまい具合に男3人、女3人となる。

「○○さん きょう コンジャウ(広州)? 」
丁氏が来て日本語で僕にそう囁いた。丁氏はこの工場の総管で工場長に次ぐ地位にある。「うん」と頷くと、「仕事が終わってからでは遅い。5時頃出た方がいい」と言う。「終業は6時なのに問題ないのか」と訊ねると問題ないという。
5時前、丁氏がやって来て、車で送ると言う。曹さんには外出許可証にサインをしてくれた。社用車のワゴンに丁氏と運転手、それに僕たち旅行組5人が乗り込んだ。丁氏は同行の女性2人を見つけ、僕に振り向いてにっこりし、手で頑張れと合図をする。エアコンのきいた社用車で幸先よく出発した。快速列車の停車する樟木頭という駅まで30分ほどドライブする。
駅に着き、彼女達に切符を買ってもらう。切符には「空調硬座普快、樟木頭 至 广州」と書かれている。14元。中国の列車には硬座と軟座がある。軟座はいわゆる一等車である。買ったのは硬座であるが空調がついているのでいい方だそうだ。それにしても広州まで1時間以上かかるというのに14元(約170円)とは安い。一番安い硬座で10元位らしい。本当なのかうそなのか、軟座になると香港ドルで100ドル(約1300円)以上もすると言う。パスポートが無ければ乗れないという話も聞いた。香港からの広州直通の国際列車も走っているせいだろうか。

次の列車まで1時間くらいあるので駅構内のレストランで夕食を食べることにした。僕にはメニューを見ても分からないので曹さん達であれこれ注文をする。時間も十分あると思っていたのに料理がなかなか出てこない。曹さんがウエイトレスに催促をするがいっこうに効果がない。待つこと約30分。やっと少しずつ料理が運ばれてきた。曹さんが女性達に、時間がないから早く、早くと急がせている。工場の近くのレストランはすぐ出てくるというのに。ここは公営レストランなのかも知れない。

改札口には長い行列、というより雑然と改札を待っているたくさんの人の群れがあった。改札口がやっと開いてホームへ降りる。中国語ではホームのことを月台(ユエタイ)と言う。その優雅な名前とは裏腹にホームはごった返している。中国で初めて列車に乗るのはもうすぐ、わくわくする。列車が入って来た。のんびりしていては中に入れそうにない。人を押しのけ押しのけ入っていく。大きな車両で、シートは両サイドに3人掛けになっているが、3人座っていても余裕があれば、席を詰めて座らせてもらってる人もいる。天井も高く棚にでも人が寝られそう。しかし既に車内は満員で空席はなく、通路にひしめき合って立つ。満員の人を乗せて列車はコンクリートの枕木の上をゆっくりと動きだした。快速といってもスピードはそんなに速くない。時速40キロくらいだろうか。この調子で広州まで行くようだ。どこからか台湾の流行歌が聞こえてくる。僕が好きな台湾歌手が歌う「千年等一回」というテレビの主題歌。

車内アナウンスで、料金を払えば軟座に変更できると言っているらしい。曹さんが変わりたいような顔をしてそう言ってきた。しかし満員で身動きがとれず、軟座の車両までいくのは不可能である。樟木頭駅を出て1時間半ほどして、やっと広州の駅についた。もう日はほとんど暮れている。
この頃の広州はまだ古い町並みで駅前には大勢の群れでびっくりしました。久しぶりに最近行った広州は深圳ほどではありませんが大きく変わっていました



人口700万人の広州市の広州駅前は、どこにこれだけの人がいたのかと思うほど大変な人混みである。ちょうどラッシュの大阪の地下街にいるようなものだ。職を求めて地方からやって来ている人も多いようだ。駅前にはそんな感じの人が多くたむろしている。人混みの中を5人で歩いていくと、運よく迎えに来てくれている温さんを見つけることができた。今日の電話で温さんにホテルの予約をとってもらっていたつもりだったが、部屋が空いていることは確認しているが予約はしていないと言う。そのホテルまで歩いて10分くらいだと言うので歩くことにした。歩いて見ると「〇〇招待所××元」と書かれた看板が多く目につく。招待所とは簡易宿泊所のことで、60元から120元くらいの価格になっていた。僕も中国では工場の近くの招待所に宿泊しているが、そこは公安局(警察)の経営で135元である。部屋は広くツインで、バス、トイレが付く。25型くらいのカラーテレビと効きの悪いクーラーがあり、贅沢を言わなければ充分だ。このことから判断をすれば、大体どんな部屋かという想像はつく。

Oさんは僕に気を使ってか、以前からちょっと豪華なホテルに泊まってみたいと思っていたと言う。したがって、これから行くホテルはちょっと豪華、広州では最も高いホテルの部類に入るらしい。あとの3人は僕たちのホテルのチェックインが済んでから探すという。
ホテルが見えてきた。確かに豪華そうな感じで明るく電飾された建物が2つ並んでいる。その1つがめざす「東方賓館」というホテル。チェックインカウンターでは中国人の同伴者達に手伝って貰いながら交渉をする。結局、Oさんと共にツインに宿泊することにした。兌換券490元。日本ならビジネスホテルでも難しい値段だ。Oさんのクレジットカードを使う。

このホテルは人民元、兌換券、香港ドルなどを使用することができる。普通外国人は外貨と交換できる兌換券を使う。外貨の流出を防ぐため人民元は外貨と交換できないようになっているらしい。人民元は1元約12円、兌換券は1元約18円。(1994年1月から兌換券は廃止された。)

部屋へ行こうとすると中国人の代表として部屋を見学に行くと言って曹さんがついてきた。部屋にはいると香港のホテルの部屋よりも格段に広い。再びロビーに戻り少しみんなでおしゃべりをしてから、彼らは自分達だけで宿泊所を探すから、Oさんと僕はゆっくり休めと言い残して出ていった。少し後味が悪い。みんな同じ宿泊所の方が良かったのだけど・・
部屋に戻って、香港のホテルへ同僚のHさんに電話をする。英語には中学以来、全く自信がないので簡単な単語を使い、多くを言わないように気をつける。
「Hさん プリーズ」
日本語の「さん」はたいてい通用する。一瞬の沈黙の後、アルファベットで名前を言ってくれと言う。アルファベットで名前を告げると「Not yet 」。それではと、今日そのホテルに泊まっている筈の上司を呼んでもらって自分が広州にいることを報告した。

温さんから電話がかかってきた。宿泊所を探したが見つからなかったので温さんの家にみんな泊めるという。自分の家に泊めるため見つからなかったと言ったのかも知れない。曹さんが一つのベッドを使い、女性三人が一つのベッドで寝るという。ごめん。
 さあ明日は広州観光だ。ゆっくり寝ておこう。


朝、曹さんがロビーから僕たちの部屋に電話が入った。彼女らが部屋を見たがっているのでみんなで部屋へ行ってもいいかと言う。すぐやって来てソファに座ったりみんなで写真を撮ったりした。そのあと、ホテルの庭園を散歩してホテル内のレストランで飲茶の朝食をとる。地元の人もたくさん来ているようで、中国人も多い。雰囲気もいいし味もなかなかいける。6人で117元也。1人あたり日本円で250円。

タクシーに乗り陳氏書院という所へ行く。女性3人と男性3人に分かれてタクシーに乗る。タクシーの中では曹さんが日本語で喋りまくり。そのためかタクシーは遠回りをして高くついてしまった。僕たちのタクシーが陳氏書院につくと、女性達は既に着いていた。僕たちは11元のタクシー代だったのに、彼女らは9元だったらしい。間違いなく曹さんが日本語でぺらぺら喋りまくったからだろう。
おまけに彼女らが入場券を買ってくれている時も、その前で彼は僕たちに日本語でぺらぺら喋りまくった。そのおかげで売り場のおばさんに台湾人だろうといわれて、外人用の高い入場券を買わねばならなくなった。ほんとにもう。入場券には「参観票、1元5角」と書かれている。ただし、「調整票価4元」と赤いはんこが押してあった。
結局中国人の倍以上を払うことになった。 もっとも倍以上といっても20円か50円かという話だけど・・

この建物はどういういわれのものか僕には分からない。案内が中国語で、漢字が並んでいる。読んでみるが、たまに解る程度でさっぱり分からない。あきらめて民芸品の陳列を見ると両面刺繍が並んでいる。直径20センチぐらいの小さなものだが、けっこういい。
この頃はまだ兌換券が使われていたのですね。思い出しました。私は持ったことも使ったこともないのですが、当時うわさには聞いていました。私が行っていた頃は香港ドルで大丈夫でした。

そして入場券、この頃は至る所に外人用の値段があったようです。こういう入場券や飛行機のチケットなど。これが不評でそのうち是正されて同じ価格となりました。

六榕寺へ行くため、中山七路を歩く。人、人、人。途中でCDを売っている店を覗いてみた。香港や台湾のCDのコピー版が多い。店員はしばらく様子を伺っていたが、僕が日本人だとわかると谷村新司、山口百恵のCDを薦めてきた。谷村新司のCDのジャケットには「日本天皇巨星」と書かれている。曹さんが昴、昴と言っているので、谷村新司を曹さん用に買った。


周恵敏
以前テレビで絶句するような香港の美人歌手を見たことがある。どうあら探しをしてもあらが見つからない、完璧な美人のように思えた。周恵敏。そのCDがあったのでこれも買う。他に広東で有名な香港の歌手のと計3枚を買った。3枚で100元足らず。日本円で1枚350円ぐらいだった。(1年後、CDは1枚15元になっていた。)

香港人に香港人の有名な歌手を手帳に書いてもらい、それに基づいて買っているが、たいてい香港、台湾のCDのコピーだ。録音できる時間いっぱいに曲が入っていてお得感がある。たいていは70分前後入っている。CDの規格では最大75分弱の記録ができるが、買ったCDの内、2枚はこの時間を越えていた。

六榕寺は歴史もあるが、六榕塔へ登るのが目的のようだ。塔は外観9層、内部17階。高さ57メートルというから、京都の東寺の塔とほとんど同じ高さである。内部は非常に狭く、階段ばかりという感じを受ける。狭い内部にたくさんの人がつめかけているため、階段を一段一段、体を小さくして登っていく。息を切らせて最上階まで登ると広州の市域が眼下に広がり、なかなかいい眺めである。
塔のまえで線香を供えるがこの線香にびっくり。日本のものとは別物のように格段に太くて長い。色も鮮やかな黄色である。見ていると三本まとめて供えるらしい。

六榕寺を出て、再び歩いてレストランへ。中華レストラン。ここで昼食をとる。温さんがみんなに希望を聞きながら注文をしてくれる。北京ダックや水餃子のようなものもあったが、他は何の料理か僕には解らない。さすがに北京ダックはどこで食べてもうまい。6人でたらふく食べる。余った分を「お持ち帰り」する。1人あたり約500円也。
昼食を済ませてバスに乗る。さすがに700万の人口を擁する街らしく2台連結された大型のバスだ。それでもこれも満員。目的地で降りられるように態勢を整える。科技書店という本屋に行かなければならない。
僕は技術指導ということで中国工場に来ているが、今回、工場で初めてCD付きのステレオセットを生産するため、生産技術の人を対象にCDの初歩技術の講習を行なった。若い人々は技術力をつければ給料が上がることもあって講習を喜んでCDに興味を持ってくれたようだった。しかしCDのことを知るにも参考書が無いと言う。曹さんに話したところ、広州の科技書店にあることがわかり今回寄ってみることにしたのである。

書店は名前からも解るように専門書を扱う書店であるにもかかわらず、大勢の人で賑わっている。曹さんと僕とで探すことにした。技術書は3階にあるようだ。そんな風の張り紙がある。曹さんを誘い3階へ行くと、すぐ見つけることができた。書名は「激光唱机激光影碟机・大全」、レーザーディスク、CD大全ということか。激光がレーザーのこと。本は上、中、下の3冊に分かれていて、1冊が2、300ページぐらいある。3冊で28元とこれまた非常に安い。どういう訳か、「中」の本が1冊もない。しかたなく「上」と「下」の本を3冊ずつ買う。PE部へのおみやげ用と自分用である。上は8元、下は11元だった。上巻は主に日本製のCDプレイヤーの性能が書かれ、下巻にはCDプレイヤーの調整方法と各集積回路、ICの仕様を中心に書かれていた。

科技書店を出ると、Oさんと温さんがいない。お茶を飲みに行ってくる、と言って向かいの百貨店へ行ったらしい。百貨店の7階の喫茶店に、2人でコーヒーを飲んでいるところを見つけることができた。僕たちもコーラを飲んで休憩する事にした。
タクシーで中山記念堂へ向かう。彼女達と曹さんが入場券を買って戻ってきた。今度は台湾人だと言われたそうだ。どうもタクシーで乗り付けた為らしい。曹さんが文句を言うと、「お前も台湾人でなければ身分証を見せろ」と言われたと曹さんがぶつぶつ言っている。ごまかすのも難しい。
中山というのは孫文のことで、広州を訪れた台湾人は必ずここへ来るという。台湾人と思われたのもそのせいかも知れない。広い場内の記念堂に入ると台湾人らしい団体さんが説明を受けていた。
今回最後に訪れたのは「黄花崗七十二烈士の墓」というところで、1911年に広州の黄花崗で反清の兵を挙げ、戦死した72人を葬ったところということだ。
墓の近くの低くなった所にひっそりと小さな建物が建っている。売店らしい。Oさんが誘ってくれ中に入る。陶器や掛け軸など土産品を売っていた。
奥には両面刺繍が並んでいる。直径20センチぐらいの物なら日本円で2、3000円程度。買って帰ろうかと考え始める。同じ買って帰るなら大きい物がいいかも知れない。
眺めていると店の女性が声をかけてきた。中国語で話してくる。標準語だ。断片的に解るが、ここは曹さんに通訳して貰いながら話を聞く。40センチぐらいの大きい物は950元だと言う。

台湾のお茶だと言ってお茶を出してくれる。飲んでみると、確かに台湾のお茶の味がする。
思案の末に、直径40センチぐらいのおしどりが刺繍された物を買うことに決め、値段の交渉に入った。950元というのは国の役人が決めたもので、私は個人でやっているから750元でいいという。
香港ドルにして630香港ドルで買うことになった。

(この頃は香港ドルがかなり高かったのです。元々は人民元が高くて1人民元が1.3香港ドルだったといいます。その後逆転、1香港ドルが1.3人民元ぐらいになり徐々に人民元がもり返して1香港ドルが1.05人民元ぐらいになって落ち着きました。最近人民元が切り上げになり、以後じわじわと高くなって再びレートが逆転。

めまぐるしく、訳が分からず過ぎた1日もだんだん時間がなくなってきた。2台のタクシーに分乗して広州西駅に向かう。帰りは奮発して2人でお金を出し合って軟座にしようとOさんと話を決めた。6人で600ドルか・・温さんに切符を頼む。温さんが戻ってきて軟座は既に満員だったと言う。買ってきたのは軟座とは正反対の一番安い硬座だった。1人9元だったと思う。雲泥の差。
ホームへ行くと列車はすでに満員で余っている座席など夢にもない。苦しい立ち席となりそうだ。Oさんが食堂車で座ろうと言う。4人が食堂車で座った。Oさん、温さん、曹さん、それに僕。廖さんと朱さんは食事は要らないと言い、普通の車両に行った。

列車が動き出すと、食堂車のおばさんが何やら言っている。曹さんの説明によると、「食堂車にいる人は40元以上の注文をする事、また途中の駅で客の入れ替えをする」ということだ。あーあ。しかもメニューを見ると、40元以上で探してみると、どう組み合わせても50元ぐらいになってしまう。うまく考えたものだ。ともかくおなかも減っていることだし注文する。料理はお世辞にもうまいとは言えない。かなり損をした気になる。温さんが食堂車の入り口に立っている香港人らしい紳士と話をしている。見た感じが中国人とは違うのだ。僕が「ホンコン ピープル?」と紳士に訊ねると彼は頷いた。温さんが僕が日本人であることを説明している。

入れ替えの駅で食堂車を出て、廖さん達の所に移る。曹さんに、さっき温さんと香港人と何を話していたのか聞いてもらう。

香港人「どうして料理をたくさん残しているんだ?」
温さん「こんなに料理がまずいのに! それに40元以上と言いながら、40元丁度にできないようになっている。50元もかかってしまった」

とまあ、こんな調子だったらしい。
本当に今日はあわただしく過ぎて、列車はいろいろな愚痴を乗せて走っていく。
「もうすぐだよ」
曹さんが言っている。外は真っ暗で、僕には今、列車がどこを走っているのか全く分からない。温さんがもうすぐだと言っているらしい。列車が止まり、ホームに降りても真っ暗でまだよく分からない。どうしてこの駅だと分かるのだろう。

駅を出ると駅前には、乗客を当て込んでタクシーがたくさん止まっている。タクシーと言っても、小型トラックをタクシーとして使っているだけのことのようだ。クーラー付きらしいハイエース風のワゴンもあった。出て行こうとしている。Oさんがそれに乗ろうと叫んでいる。しかし温さんは高いから駄目だと言う。普通の小型トラックのだと40元ぐらいなのに、そのワゴンは60元だと言っているそうだ。どうも温さんはしまり屋のようだ。もしかしたら軟座のチケットも売り切れではなかったのかも知れない。
結局、小型トラックのタクシーに乗る。座席が4つしかないので、2人が後の荷台に乗る。女好きの曹さんが廖さんと一緒に乗り込んだ。喋っていると舌を噛みそうなサスペンションで、小型トラックタクシーは帰途を行く。

お疲れさま。やっと戻ってきた。列車で食事をしなかった廖さんと朱さんのため近くのレストランへ曹さんを誘っていく。2人は僕に気を使ってか余り値の張るものを注文しない。僕は卵ととうもろこしの入ったスープ、中華スープだけを頼んだ。「粟米×××」という名前だそうな。粟米とは、とうもろこしの事だそうだ。このスープは非常においしい。日本人にとって違和感なく食べられる数少ないものである。廖さんと朱さんも、おいしい、おいしいと言って食べてくれた。
3人を誘い、僕の泊まっている招待所でシャワーを浴びるていくことにした。
工場で働く彼、彼女達は寮に住んでいる。一度夜遅く寮を見学したことがあるが、寮は倉庫のような部屋で、コンクリートむき出しの床に鉄パイプの2段ベッドを置いただけの粗末な所である。ベッド以外にはスペースは余りのこっていない。テレビで上海の日系企業の寮を放映しているのを見たことがあるが綺麗すぎてびっくりしてしまった。こっちはそんなのとは無縁で部屋には役職によって違うが、彼女達の場合10人が同室している。曹さんは4人部屋である。寮の隣の洗濯場では水で髪の毛を洗っている彼女達を見たことがある。冬になると湯を会社から買って洗うそうだ。
だからたまには熱いシャワーもいいのではと思い誘ってみたのである。

彼女らは、始め髪の毛だけを洗うつもりだったようだが、そのうちシャワールームのドアを閉めてシャワーを使いだしたようだ。曹さんと僕はその間、梨を食べながら話をする。女性達にも梨を残しておかないと、と言うと、梨は男女一緒に食べてはいけないと言う。梨と離が同じ発音なので一緒に食べると別れてしまうということらしい。なるほど。
彼女達のシャワーが済み、曹さんと交代した。時刻はもう11時を過ぎている。彼女達の髪の毛を乾かせているドライヤーの音を聞きながら、中国の休日は過ぎていった。
この1993年当時は列車に乗るのもなかなか骨が折れることでした。でも中国で初めての列車の旅行は十分に私の好奇心をそそっていい思い出になりました。
皆さんありがとう。
中国出張日記 鳳崗から広州旅行
終わり